By Cafesba , 13 11月, 2025

ネスレの化学者マックス・モーゲンターラー博士は、コーヒー本来の風味と香りを保つインスタントコーヒーの開発に7年間を費やしました。

課題は、本物のコーヒーの品質を保ちながら、水を加えるだけで簡単に淹れられる製品を作ることでした。

1938年4月1日、ネスカフェはスイスで正式に発売されました。

このインスタントコーヒーは、スプレードライ法を用いて製造されました。

フラッシュドライとも呼ばれるこの方法は、高温の乾燥管に熱いコーヒー液を噴霧し、急速に乾燥させて微細な粉末を作ります。冷水に溶けやすいという利点があり、大量生産に非常に適していますが、高温で製造されるため、香りと酸味がわずかに蒸発し、苦味が強くなる傾向があります。

By Cafesba , 8 11月, 2025

ブラジルは1930年代にコーヒー余剰問題に直面しました。
1929年の世界恐慌で世界的では経済、コーヒーの需要が劇的に減少しました。
世界中の消費者が必需品以外の商品に使えるお金が少なくなったためです。
国際貿易は急激に縮小し、ブラジルのコーヒーを輸出することが困難になりました。
ブラジルは、価格が高く需要が強かった1920年代にコーヒー生産を劇的に拡大していました。
恐慌が起きた頃には、世界市場が吸収できる量をはるかに超えるコーヒーを生産する大規模なプランテーションがありました。
ブラジルは当時も現在も世界最大のコーヒー生産国であり、世界供給量の大部分を占めていました。
つまり、需要が落ち込んだ時、ブラジルが余剰問題の矢面に立たされたのです。
供給が需要を大幅に上回ったため、コーヒー価格は急落しました。
これは悪循環を生み出しました。
非常に低価格でも十分な買い手がおらず、大量の売れ残りコーヒーの在庫が積み上がりました。
ブラジル政府は、供給を減らして価格を安定させるために数百万袋のコーヒーを焼却するなど、危機に対処するための様々な措置を講じました。
しかし、これは無駄が多く経済的にダメージを与えるものでした。

By Cafesba , 6 11月, 2025

ベトナムのコーヒー豆の主要な取引企業であるNestléは、もともとはドイツのフランクフルト出身のアンリ・ネスレがスイスで創立した会社です。
彼はもともとは薬剤師でしたが、1860年代に乳幼児の栄養不足、死亡率が問題になっていた時代にその問題を解決しようと、乳児用粉ミルク「ファリーヌ・ラクテ・ネスレ」を開発しました。
Nestléはドイツ語で鳥の巣という意味で、今のNestléのロゴの鳥の巣は彼の家紋に由来していますが、同時にひな鳥を守る親鳥を想起させるロゴで、この商品にふさわしいロゴですね。
この商品は当時の欧米で大ヒットしました。
お湯にファリーヌ・ラクテ・ネスレ粉末を加えてまぜて出来上がりという即席に食べられるというのは当時画期的でした。
このお湯をかけただけで食べられるという発想は、会社として後年コーヒーの分野でも取り入れられ、1938年インスタントコーヒー「ネスカフェ」の開発につながったと言えます。

By Cafesba , 1 11月, 2025

ベトナムのドイモイ政策ではベトナム政府はコーヒーを主要な輸出農産品と位置づけました。
栽培計画ではロブスタ種が選ばれました。

アラビカ種とログスタ種
ロブスタ種は病害虫に強く、気候や生育条件に適していたダクラク省の中部高原地帯を中心に栽培されます。
もともとベトナムのコーヒー栽培は19世紀末、フランス植民地時代に始まりこの時はアラビカ種を導入しました。
しかし、当時は生産量が大きく伸びませんでした。
ベトナムの気候や生育条件ではロブスタ種の方があっていたとこうことでしょうか。
ロブスタ種はカフェイン勧誘量が多く苦みや渋み、土っぽさを感じるコーヒーです。
主にインスタントコーヒーやブレンドコーヒーの原料として使われます。
ネスレグループがベトナム最大の購入者で、年間7億米ドルでベトナムのコーヒー生産全体の20~25%を占めています。
最近でも2024年から2025年にかけてNetleは1億7,500万ドルベトナム南部ドンナイ省トリアンにある工場への投資を
行っています。
この工場はネスカフェ、ネスカフェ ドルチェ グスト、ネスプレッソ、ブルーボトル、スターバックスの全ブランドを生産できる唯一の工場です。
 

By Cafesba , 25 10月, 2025

ドイモイ政策がすすめられたベトナムでは1987年に外国投資法が制定されました。
これにより、ベトナム国内で外国企業の設立が認められるようになりました。
これ以降海外企業のベトナムへの投資が活発になります。

外国企業がベトナムに現地法人や会社を設立することをFDI(Foreign Direct Investment)といいますが、
このベトナムにおける1987年以降のFDIの推移を見てみると、1988年から1990年までの3年間は16億350万米ドルでしたが、1991年から1995年まではベトナムのFDIは劇的に増加し、183億7910万米ドルまで増加しました。

By Cafesba , 18 10月, 2025

1980年代からスペシャリティコーヒー産業が発展していく一方、コモディティコーヒー産業ではベトナムコーヒーの大躍進が起こりました。
大躍進のきっかけは1986年12月にベトナム共産党の党大会で採択された政策のスローガン"ドイモイ"でした。
ドイモイとは刷新という意味で、社会主義体制を維持しつつ市場経済を導入するという抜本的な経済改革を目指すものでした。
ベトナム戦争終結後ベトナムではベトナム社会主義共和国となり、中央集権的な計画経済を導入していましたが、これにより効率が大幅に低下し、生産量が減り、経済の低迷を招きました。
その経済の低迷を立て直そうというのがドイモイ政策です。
ベトナム政府はコーヒーを重要な農業セクターへ転換させることを目指し、コーヒーへの投資資源を集中することになりました。
この年軍部や農業省傘下の企業連合による(LH-XN-CPVN)により、第一回人民コーヒー会議が開催されました。
この年は日本企業の日商岩井が、西側諸国で最初の民間企業として、ハノイに駐在所を設立した年でもあります。
1987年にベトナムでは外国投資法が制定され、外国会社の設立が認められました。
これは後に外資系会社の進出の土台となります。
1988年には民営企業の活動を認める政令が発令されました。

By Cafesba , 13 10月, 2025

1996年以降、パナマスペシャリティコーヒー協会(SCAP)によって開催されていたBOPによって、パナマのコーヒーの品質の高さに注目が集まるになりました。
SCAPのPrice Pertersonの記事によって、2000年代のその様子が描かれています。
そしてそのPrice Petersonの経営する農園のエスメラルダ農園で出品したゲイシャ種のコーヒー豆が1ポンド(約450g)あたり21ドルという当時としては記録的な高価格で落札されます。
これは当時の標準的な高級コーヒーの約10倍でした。
Petersonファミリーは広い農園の区画ごとにロットを分離し、その中で風味の優れているロットをBOPに出品しました。
審査員たちはそれまでのコーヒーではありえないというジャスミン、ベルガモット、柑橘系、ハチミツのような極めて複雑で華やかな風味に衝撃を受けたと言います。
この落札されたゲイシャはアメリカのStumpton Coffeeや、Intelligentsia、Counter Culture Coffeeなどの「サードウェーブ」系の革新的なロースターによって焙煎販売され、世界的なゲイシャブームが起こりました。
 

By Cafesba , 11 10月, 2025

第1回BOP開催後のSCAAとSCAPの交流は続き、パナマのスペシャリティコーヒーの高品質の追求は続く

SCAAの協力により、SCAPは1996年の第1回BOP開催を成功させました。
このときSCAAは、以下の面でサポートしました。
1.公式カッピングフォーム(香りや酸味、甘味、クリーンカップ、バランスなどの10項目評価)
=> *SCAAによるスペシャリティコーヒーの評価基準SCAAスコア

2.ブラインドカッピング方式(公平性確保のため農園名・ロット名を隠す)
3.審査プロトコル(温度段階ごとの再カッピング・採点の標準化)
地元カッパーのトレーニング

SCAP側は、パナマの標高・品種・プロセスの特性に応じて微調整し、国際審査員と地元審査員に夜公正、入賞ロットを国内外バイヤーに公開し、透明性を確率しました。

By Cafesba , 9 10月, 2025

パナマスペシャリティコーヒー協会(SCAP)設立後、パナマのボケーテ地域やヴォルカン地域の生産者を中心に、アメリカのスペシャリティコーヒー協会(SCAA)の協力のもと、「自国のコーヒーを国際的なカッピング基準で評価してもらう仕組みを作ろう」という動きがありました。

そして、アメリカ国際開発庁(USAID)やパナマ観光庁の協力のもと、1996年にコーヒーの品質コンテスト第一回ベストオブパナマ(BOP)が開催されました。

コンテストの参加者は、エスメラルダ農園のプライス・ピターソンやドンパチ農園のフランシスコ・セラシン,エリダエステート農園のウィルフォード・ラマタスたちでした。

評価基準はSCAAのテッド・リングル、ジョージ・ハウウェルの指導のもと確立され、SCAAカッパーが審査員として招かれました。

評価はブラインド方式で、農園名を伏せての評価という方式でした。

このコンテストはパナマの生産者が自ら国際基準を導入し、SCAAの専門家が評価の透明性を保証し、政府や国際機関がインフラ支援をしたことで成功し、その後も継続されました。

By Cafesba , 5 10月, 2025

パナマは今日ではゲイシャという最高級のスペシャリティーコーヒーとして知られるコーヒー豆の生産国です。
この国のコーヒー生産もまたアメリカスペシャリティコーヒー協会(SCAA)と深い関わりがありました。
1989年にICOの価格協定が崩壊し、生産国でコーヒーの下落が起こりました。
たとえばパナマででは1ポンド(約450g)1.20米ドルだったのが、価格崩壊後は0.74※ドルまで下落したという話もあります。
また安価なベトナムのロブスタ種の生産量の増大により、パナマのコーヒー豆の価格が回復する見込みはありませんでした。
このような状況でパナマでは、コモディティーコーヒーの価格には左右されないスペシャリティコーヒーの生産に力を入れていこうという動きが出てきました。
1990年初頭にパナマスペシャリティーコーヒー協会(SCAP)が発足しました。
コトワ農園のリカルド・コイナーや、アシエンダ・ラ・エスメラルダ農園のプライス・ピーターソンらが運営に参加しました。
SCAP発足当初からSCAAとは関わっており、生産国と消費国との間の結びつきが強まりました。