By Cafesba , 23 8月, 2026

朝鮮戦争の休戦後、荒廃した国を再建するため、北朝鮮はソ連、中国、東欧諸国から技術者を受け入れました。

特に一部の東欧諸国にはコーヒーを飲む文化があり、そうした国々の人々は北朝鮮でもコーヒーを飲んでいました。

 

朝鮮戦争後の荒廃からの復興

被害はほぼ壊滅的でした。

1951年以降、実質的に迎撃されることのなかった米軍の爆撃作戦によって、国内の都市構造の大部分が破壊されました。

平壌はほぼ瓦礫と化し、主要な町の大部分はその建物の大半を失っていました。

朝鮮戦争後の北朝鮮の復興は驚異的な速さで行われました。

1953年頃から1960年代初頭にかけて、同国は戦時の広範囲にわたる破壊から、新しいアパート地区、工場、病院、鉄道、電力施設を備えた再建された工業経済へと移行しました。

しかし、これは単なる北朝鮮の「自力更生」のサクセスストーリーではありませんでした。ソ連、中国、東ドイツ、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどの社会主義諸国からの莫大な支援が極めて重要だったのです。

1953年7月27日に休戦協定が署名されたとき、北朝鮮は並外れた復興の課題に直面していました。

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By Cafesba , 15 8月, 2026

第二次世界大戦以前の日本統治時代、現在の北朝鮮・平壌には喫茶店が存在し、コーヒーも飲まれていました。

しかし、太平洋戦争が始まると、日本はコーヒーの輸入を禁止しました。その後のソ連占領期には、一部のソ連占領軍関連施設でコーヒーが飲まれていた可能性はありますが、主な飲み物はお茶でした。

そして、朝鮮戦争が始まります。

北朝鮮戦線に展開したアメリカ兵は、日常的にコーヒーを飲んでいました。

 

朝鮮戦争の勃発

金日成が1950年6月25日に朝鮮人民軍を38度線の南へ進軍させたのは、李承晩政権を打倒し、共産主義体制のもとで朝鮮半島を統一するための、またとない機会だと考えたからです。

これは、単にスターリンから命令されて行ったものではありません。公文書などの史料からは、むしろ金日成自身が繰り返しモスクワに対して南進の許可を求めていたことが分かっています。実際、スターリンは1949年の段階では、金日成の要求を何度も拒否していました。

38度線はもともと、1945年の日本の降伏後、ソ連軍とアメリカ軍の占領地域を分ける境界線として設定されたものでした。

しかし1948年までには、朝鮮半島には互いに対立する二つの政府が成立していました。

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By Cafesba , 9 8月, 2026

これから北朝鮮のコーヒーの物語について書いていきます。

以前は、朝鮮(韓国)のコーヒー史のシリーズについて書いてきました。

韓国


しかし第二次世界大戦後の部分については、それは韓国(大韓民国)だけの話でした。

実際には、朝鮮半島にはもう一つの国家が存在します。朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)です。

朝鮮は1910年以来、日本の植民地でした。

1945年に日本が降伏すると、米国とソ連は降伏を受理するために、急ごしらえで北緯38度線において半島を分割することに合意しました。数時間のうちに引かれ、あくまで暫定的なものとされた線です。

この時期、北朝鮮ではコーヒー文化はほぼ消滅していました。ソ連占領軍の一部の施設内など、ごく限られた範囲でしか存在しなかったのです。


朝鮮 金日成、北朝鮮の初代指導者

1945年8月に日本が降伏した後、ソ連軍は38度線以北の朝鮮を占領しました。

ソ連は、友好的な政府を樹立でき、なおかつソ連の指示に従順な朝鮮人の要人を必要としていました。

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By Cafesba , 26 7月, 2026

1990年以降の台湾コーヒーの物語は、本質的には「復活の軌跡」です。日本統治時代、台湾には本格的なコーヒー産業が存在し、1945年には栽培面積が史上最大の967ヘクタールに達しました。

しかし第二次世界大戦後、茶やその他の農作物が優先されるようになり、コーヒー栽培は衰退しました。1970年代から80年代にかけてコーヒーはマイナーな農作物にすぎず、現代のコーヒー産業が本格的に形になり始めたのは1990年代以降のことです。

この復活を後押しした要因はいくつかあります。

1990年代以降の産業における最大の特徴は、茶との密接な関係性です。伝統的に茶を栽培してきた多くの台湾の農家が、テロワール(土地の個性がもたらす生育環境)や加工技術に関する深い知識を応用し、コーヒー栽培の試みを始めました。


自然災害を経て成長した台湾のコーヒー産業

国内のコーヒー消費量とカフェ文化の高まりにより、高品質な豆に対する地元での需要が生まれました。また、政府の政策も重要な役割を果たしました。

自然災害(特に1999年の集集大地震とそれに続く台風の被害)の後、政府は農家に対し、土壌や水質の保全効果がより高い換金作物への転換を奨励し、これが国内のコーヒー農園が復活するきっかけとなりました。

By Cafesba , 20 7月, 2026

1998年にスターバックスが台湾での営業が開始されてから、台湾のカフェも新たな業態が出てきました。

スターバックス以前の1990年代に現れたカフェチェーン丹堤咖啡、怡客咖啡、西雅圖極品咖啡、IS Coffeeは、「イートイン型(座って過ごす喫茶店)」でした。

しかしスタバの登場以降の2000年代は、15坪ほどの小型店で「テイクアウト中心・高回転」を志向するチェーン店が出現し始めました。

これらの店は、camaのように「その場」焙煎の香りの差別化、Louisa の「平価精品咖啡」(スペシャルティコーヒー)、など特色を持っています。

2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行し、人々が屋内空間での飲食を嫌がるようになり、飲食業各社の業績が軒並み落ち込み、テイクアウトが志向された時期というのも影響しています。

85℃の「五つ星ケーキ×平価」が出現したのもこの時期です。


SARSは台湾初の政権交代後の試練

スターバックスの営業開始から2年後、2000年の台湾総統選挙で民進党の陳水扁が勝利し、台湾で初めて民主選挙による国民党から民進党へと政権交代が起こりました。

しかし、陳水扁政権を襲ったのがSARSでした。

By Cafesba , 12 7月, 2026

スターバックスは1996〜2000年ごろ、アジア各地に進出しています。

このサイトでも、過去の記事で1996年の日本、19999年の中国、韓国のスターバックスについて書いてきました。

スターバックス日本1号店は1996年銀座にオープン

新世界グループによる鄭溶鎮氏によるスターバックス韓国事業の推進

カフェ文化を中国に広めたスターバックス

ちなみにのアジア集中展開は、当時のハワード・シュルツCEOが「2000年代はアジアが最大の成長市場になる」と公言していた方針の反映で、日本1号店の成功(初日から行列ができ、予想を大きく上回る売上)がその後のアジア展開を加速させたと言われています。

台湾においても1998年スターバックスの1号店が台北市の天母において一号店が出店されました。

台湾でスターバックスを運営に乗り出したのは、1986年より紙パックコーヒー咖啡廣場を販売していた統一咖啡を擁する統一企業(統一集団)でした。

By Cafesba , 5 7月, 2026

1990年代台湾ではコーヒー文化が花開き、羅多倫・丹堤・怡客などによる低価格チェーンのコーヒー店が増えた一方、台北の学生街を中心とする文学・音楽・反文化的な個人喫茶店、エスプレッソ、カプチーノ、カフェラテなどのイタリア式コーヒーの浸透がありました。

また戒厳令の解除による報道や出版、表現の自由化により、1990年代の台湾では、カフェが社会運動や前衛芸術と結び付く例もありました。

その代表的なカフェが甜蜜蜜咖啡館(ティエンミーミー・カフェ)です。


戒厳令解除後の台湾の民主化運動(野百合学運)

台湾では長らく戒厳令(1949年〜)のもとで言論・集会・結社の自由が厳しく制限されていました。

それが1987年に解除(解嚴)され、続いて報道の自由化(報禁解除、1988年)、政党結成の解禁などが一気に進みます。

この解嚴前後の数年間は、抑え込まれていた社会運動が噴き出した時期で、労働運動、環境運動、原住民運動、女性運動など多様な運動が活発化しました。

1988年に蒋経国が死去すると、副総統だった李登輝が総統に昇格します。

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By Cafesba , 28 6月, 2026

1976年に、父蒋介石の後を継ぎ、台湾の総統になっていた蒋経国は、1970年代に十大建設を完成し、1980年になるとさらに十二大建設の大公共事業を進めます。

1980年代前半の台湾は、全土が巨大な工事現場であり、物流の大動脈が動き始めた時期でした。

十大建設によって、造船、鉄鋼、高速道路建設、石油化学などに従事する何十万人もの「新興肉体労働者層」が台湾に誕生しました。

また蒋経国晩年の1987年には、1949年から38年間続いた戒厳令が解除されました。放送局、新聞、雑誌などのメディアが自由化され、広告を掲載できる媒体が多様化し、広告市場は限られた媒体側が優位な「売り手市場」から、広告主が媒体を選びやすい競争市場へ変わっていきました。

このような状況で、台湾では巨大な缶コーヒー市場が形成されました。


伯朗咖啡の誕生

金車(King Car)の創業者・李添財は、最初の飲料製品「麦根沙士(ルートビア)」で大きな損失を被りました。

その後、日本の大手コーヒーメーカーUCCに学び、成熟していた炭酸飲料市場を捨て、缶コーヒー市場への転換を決断します。

当時、台湾は「コーヒーの砂漠」とも呼べる状況で、業界関係者はこの市場に懐疑的でした。

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By Cafesba , 21 6月, 2026

1960年までは、蒋介石総統率いる国民党の一党独裁政権のもと、冷戦下の対ソ連、中国の拠点としてアメリカの支援もあり、台湾は経済成長していきました。
しかし、1970年代には国際情勢が変わり、中国と入れ替わるように、台湾が政治的に国際社会から孤立していきます。
台湾は当時日本とも政治的には断交しましたが、経済的には裏技を使って、交流を続けました。
台湾でも日本の商社から生豆を輸入する台湾企業が、珈琲店のチェーンを作りました。
 

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By Cafesba , 14 6月, 2026

台北の書店街の明星珈琲館が、当時の出版業界人や作家が集まる店として有名になった1960年前後には、台北の西門町にはコーヒーの専門店がオープンするようになりました。
この中で代表的なのが、成都路にある蜂大咖啡と南美珈琲です。
蜂大咖啡と南美咖啡のある成都路は1949年の国民政府の台湾移転後、大量の資金が流入し、映画館に加えて百貨店や娯楽施設が次々に現れ、中華商場の完成後には全国最大の商業娯楽の中心地となりました。
また、コーヒー専門店ではないですが、中山北路には台湾に駐留していた米軍向けのパン屋福利麵包がありました。

蜂大咖啡(フォンダー・カフェ)
店名に「蜂」という文字が入っているのには、面白い理由があります。
創業者である曹志光氏は、もともと自宅の屋上で養蜂を営んでおり、1956年に「蜂蜜大王」という名で、蜂蜜や農産物を売る店として創業しました。
そこから蜂蜜入りの各種飲料(紅茶やコーヒー)へと発展していったのだそうです。

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