By Cafesba , 10 10月, 2026

北朝鮮当局は1998年ごろから「苦難の行軍」に代えて「強行軍」や「強盛大国建設」といったスローガンを掲げ始め、2000年前後に苦難の行軍の終結を宣言したとされています。

北朝鮮の経済はチャンマダン市場の拡大によって、食糧が配給制度以外の経路でも流通するようになりました。

韓国と北朝鮮は、接近し経済協力をするようになりました。

こうした中、チャンマダンで韓国のインスタントコーヒーが北朝鮮でも飲まれるようになります。

北朝鮮におけるコーヒー文化の普及は、政府の経済政策だけでなく、開城工業団地の労働者とチャンマダンの商人によって進みました。

つまり、南北の政治関係が悪化しても、一度韓国製コーヒーのおいしさを知った北朝鮮の消費者の需要は消えなかったということです。


国際的な食糧支援

1995年の大洪水を機に、北朝鮮は異例にも国際社会へ支援を要請しました。

世界食糧計画(WFP)を中心に、アメリカ、中国、日本、韓国などから大量の食糧が送られました。

By Cafesba , 3 10月, 2026

1980年代後半に、共産主義諸国の体制転換が相次ぎ、アメリカとソ連を中心とした東西冷戦が終結すると、それまで東側共産主義諸国からの支援を受けていた北朝鮮の経済は混乱し、食糧危機を迎えます。

北朝鮮では段階的に共産主義の配給制度を停止していき、飢餓が北朝鮮国民を襲います。

金正日の北朝鮮当局は、「苦難の行軍」というスローガンを掲げ、「中央に頼るな、自力更生で労働者の食糧を自力確保せよ」と地方の幹部や企業に丸投げしました。

国民は生き延びるためにチャンマダン(市場)での商売を始めました。

チャンマダン経済は急拡大していきます。

コーヒーもチャンマダンで高級品として登場します。


ソ連崩壊

1985年に登場したゴルバチョフの改革です。彼はペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)を進めるとともに、東欧諸国の内政には軍事介入しないという姿勢を示しました(かつての「ブレジネフ・ドクトリン」の放棄で、俗に「シナトラ・ドクトリン」とも呼ばれます)。

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By Cafesba , 26 9月, 2026

金正日は1976年に対南工作の新しい方針を示し、工作員の現地化を徹底するよう指示したと言われています。

現地化とは、単に外国語を話せるようになることではありません。

工作員が日本人や韓国人などの身分を使い、その国の社会に溶け込めるようにすることです。

例えば日本人に偽装する工作員は、日本語の自然な発音や会話、日本人の日常生活や習慣についての知識、日本人としての経歴や身分に関する知識、日本人として外国を旅行する際の振る舞いが求められました。

そこで日本人を拉致して、工作員の日本語教育や身分偽装に利用し、日本や韓国などでの秘密工作に役立てようとしました。

そして1977年から1983年にかけて、日本国内や欧州で、日本人を対象とする拉致が相次ぎました。

拉致被害者のうち、米国の脱走兵と結婚した曽我ひとみさんの家庭ではコーヒーを飲んでいました。


日本人の拉致被害

日本政府が認定している拉致事案は12件、被害者は17人です。

北朝鮮はこのうち13人の拉致を公式に認め、5人は日本に帰国しましたが、残る12人については「8人は死亡、4人は北朝鮮に入っていない」と主張しています。

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By Cafesba , 20 9月, 2026

1960年代、北朝鮮は千里馬運動で国内の建設を進めると同時に韓国政府を倒し、朝鮮半島の統一を進めようとします。

その一環として、韓国国内に地下革命組織を作り、労働者、農民、青年学生による革命を起こし、北朝鮮はこれを支援する計画を実行します。

しかし、その計画は韓国政府の妨害により失敗し、北朝鮮では、軍や情報機関のトップが失脚します。

この後に台頭し、軍や情報機関のトップを掌握したのが金日成の息子である金正日で、金日成の後継者となりました。

金正日は大変な美食家でまた紅茶よりもコーヒーを好みました。


 

1960年以降、北朝鮮が韓国に対外工作をするようになる

在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が開始した翌年、1960年韓国では、学生・市民による大規模デモが起こり、李承晩大統領が退陣しました。

これは「4・19革命」と呼ばれる韓国の革命です。

朝鮮戦争では、韓国政府を倒して朝鮮半島の統一をするという企てに失敗した金日成ですが、「北朝鮮軍が侵攻しなくても、韓国国民自身が政府を倒せるではないか」と検討し始めました。

北朝鮮指導部は4・19革命を非常に注意深く観察し、韓国内の「革命勢力」の強さを検討しました。

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By Cafesba , 6 9月, 2026

朝鮮戦争がいったん休戦という形で終結し、荒廃した北朝鮮を、ソ連を中心とする共産主義国家連合の協力で短期間に復興しました。

その後、1956年に、それまで共産主義国として協力関係にあったソ連と中国が対立し始めます。

共産主義国家連合が崩れ始め、もともとはソ連の強力ばバックアップで樹立した金日成政権も、この頃から自主、自立、自衛の主体思想(チュチェ思想)による自主路線による増産体制を目指し始めます。

しかし、当時の北朝鮮は朝鮮戦争や韓国への脱出者などにより、当時の北朝鮮は慢性的な労働力不足に悩まされていました。

そのような労働力の補充が必要になったことを背景に在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が始まります。

当時の北朝鮮では、一部の外国人向けの施設を除いて、コーヒーを飲む習慣はありませんでしたが、日本での喫茶店に行った経験やインスタントコーヒーなどの仕送りで、一部の帰国者はコーヒーを飲んでいたと言われます。

 

ソ連のフルシチョフのスターリン批判による共産主義諸国の変化

1953年ソ連のスターリンが亡くなると、1953年から1958年ごろまで、マレンコフ・ベリヤ・モロトフ・フルシチョフらの権力闘争が起こりました。

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By Cafesba , 23 8月, 2026

朝鮮戦争の休戦後、荒廃した国を再建するため、北朝鮮はソ連、中国、東欧諸国から技術者を受け入れました。

特に一部の東欧諸国にはコーヒーを飲む文化があり、そうした国々の人々は北朝鮮でもコーヒーを飲んでいました。

 

朝鮮戦争後の荒廃からの復興

被害はほぼ壊滅的でした。

1951年以降、実質的に迎撃されることのなかった米軍の爆撃作戦によって、国内の都市構造の大部分が破壊されました。

平壌はほぼ瓦礫と化し、主要な町の大部分はその建物の大半を失っていました。

朝鮮戦争後の北朝鮮の復興は驚異的な速さで行われました。

1953年頃から1960年代初頭にかけて、同国は戦時の広範囲にわたる破壊から、新しいアパート地区、工場、病院、鉄道、電力施設を備えた再建された工業経済へと移行しました。

しかし、これは単なる北朝鮮の「自力更生」のサクセスストーリーではありませんでした。ソ連、中国、東ドイツ、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどの社会主義諸国からの莫大な支援が極めて重要だったのです。

1953年7月27日に休戦協定が署名されたとき、北朝鮮は並外れた復興の課題に直面していました。

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By Cafesba , 15 8月, 2026

第二次世界大戦以前の日本統治時代、現在の北朝鮮・平壌には喫茶店が存在し、コーヒーも飲まれていました。

しかし、太平洋戦争が始まると、日本はコーヒーの輸入を禁止しました。その後のソ連占領期には、一部のソ連占領軍関連施設でコーヒーが飲まれていた可能性はありますが、主な飲み物はお茶でした。

そして、朝鮮戦争が始まります。

北朝鮮戦線に展開したアメリカ兵は、日常的にコーヒーを飲んでいました。

 

朝鮮戦争の勃発

金日成が1950年6月25日に朝鮮人民軍を38度線の南へ進軍させたのは、李承晩政権を打倒し、共産主義体制のもとで朝鮮半島を統一するための、またとない機会だと考えたからです。

これは、単にスターリンから命令されて行ったものではありません。公文書などの史料からは、むしろ金日成自身が繰り返しモスクワに対して南進の許可を求めていたことが分かっています。実際、スターリンは1949年の段階では、金日成の要求を何度も拒否していました。

38度線はもともと、1945年の日本の降伏後、ソ連軍とアメリカ軍の占領地域を分ける境界線として設定されたものでした。

しかし1948年までには、朝鮮半島には互いに対立する二つの政府が成立していました。

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By Cafesba , 9 8月, 2026

これから北朝鮮のコーヒーの物語について書いていきます。

以前は、朝鮮(韓国)のコーヒー史のシリーズについて書いてきました。

韓国


しかし第二次世界大戦後の部分については、それは韓国(大韓民国)だけの話でした。

実際には、朝鮮半島にはもう一つの国家が存在します。朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)です。

朝鮮は1910年以来、日本の植民地でした。

1945年に日本が降伏すると、米国とソ連は降伏を受理するために、急ごしらえで北緯38度線において半島を分割することに合意しました。数時間のうちに引かれ、あくまで暫定的なものとされた線です。

この時期、北朝鮮ではコーヒー文化はほぼ消滅していました。ソ連占領軍の一部の施設内など、ごく限られた範囲でしか存在しなかったのです。


朝鮮 金日成、北朝鮮の初代指導者

1945年8月に日本が降伏した後、ソ連軍は38度線以北の朝鮮を占領しました。

ソ連は、友好的な政府を樹立でき、なおかつソ連の指示に従順な朝鮮人の要人を必要としていました。

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By Cafesba , 26 7月, 2026

1990年以降の台湾コーヒーの物語は、本質的には「復活の軌跡」です。日本統治時代、台湾には本格的なコーヒー産業が存在し、1945年には栽培面積が史上最大の967ヘクタールに達しました。

しかし第二次世界大戦後、茶やその他の農作物が優先されるようになり、コーヒー栽培は衰退しました。1970年代から80年代にかけてコーヒーはマイナーな農作物にすぎず、現代のコーヒー産業が本格的に形になり始めたのは1990年代以降のことです。

この復活を後押しした要因はいくつかあります。

1990年代以降の産業における最大の特徴は、茶との密接な関係性です。伝統的に茶を栽培してきた多くの台湾の農家が、テロワール(土地の個性がもたらす生育環境)や加工技術に関する深い知識を応用し、コーヒー栽培の試みを始めました。


自然災害を経て成長した台湾のコーヒー産業

国内のコーヒー消費量とカフェ文化の高まりにより、高品質な豆に対する地元での需要が生まれました。また、政府の政策も重要な役割を果たしました。

自然災害(特に1999年の集集大地震とそれに続く台風の被害)の後、政府は農家に対し、土壌や水質の保全効果がより高い換金作物への転換を奨励し、これが国内のコーヒー農園が復活するきっかけとなりました。

By Cafesba , 20 7月, 2026

1998年にスターバックスが台湾での営業が開始されてから、台湾のカフェも新たな業態が出てきました。

スターバックス以前の1990年代に現れたカフェチェーン丹堤咖啡、怡客咖啡、西雅圖極品咖啡、IS Coffeeは、「イートイン型(座って過ごす喫茶店)」でした。

しかしスタバの登場以降の2000年代は、15坪ほどの小型店で「テイクアウト中心・高回転」を志向するチェーン店が出現し始めました。

これらの店は、camaのように「その場」焙煎の香りの差別化、Louisa の「平価精品咖啡」(スペシャルティコーヒー)、など特色を持っています。

2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行し、人々が屋内空間での飲食を嫌がるようになり、飲食業各社の業績が軒並み落ち込み、テイクアウトが志向された時期というのも影響しています。

85℃の「五つ星ケーキ×平価」が出現したのもこの時期です。


SARSは台湾初の政権交代後の試練

スターバックスの営業開始から2年後、2000年の台湾総統選挙で民進党の陳水扁が勝利し、台湾で初めて民主選挙による国民党から民進党へと政権交代が起こりました。

しかし、陳水扁政権を襲ったのがSARSでした。