By Cafesba , 1 3月, 2026

スターバックスに対抗し、低価格コーヒーとしてEDIYA COFFEEも2026年現在では、創業当初よりコーヒーの価格を値上げをし、3200ウォン程になっています。
一方低価格コーヒーの代表格として台頭して来たのがMEGA MGC COFFEEです。
現在ではスターバックスは高価格、EDIYAは中価格、MGCは中価格となっています。

MEGA MGC COFFEEは、ハ・ヒョンウン氏が設立したお姫様カフェアンハウスやかき氷のパシヤをルーツに持つコーヒーフランチャイズです。

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By Cafesba , 22 2月, 2026

1999年にソウルでスターバックス1号店が開店しました。
この韓国でのスターバックス事業を推進したのが新世界グループの現会長鄭溶鎮(チョン・ヨンジン)氏です。

鄭溶鎮氏米国ブラウン大学への留学時代にスターバックスを経験した鄭副会長が、韓国への導入を積極的に推進しました。
1990年代初頭、鄭副会長は米国ロードアイランド州にあるブラウン大学(Brown University)で経済学を専攻し、留学生活を送っていました。
当時、現地の大学生の間で爆発的な人気を集めていたのがスターバックスでした。鄭副会長はキャンパス近くの店舗で、学生たちが列を作ってコーヒーを買い、店内で自由に勉強したり会話を楽しんだりする「サードプレイス(第3の空間)」としての文化に深い感銘を受けました。
彼は単にコーヒーの味に魅了されただけでなく、「このような文化が韓国に入れば、若者を中心に凄まじい変化が起きるだろう」と確信しました。当時の韓国は「タバン(茶房)」やインスタントコーヒーが主流であり、エスプレッソベースのテイクアウトコーヒーは非常に斬新な概念でした。

By Cafesba , 21 2月, 2026

1990年代初頭、「オレンジ族」という言葉は、物質的な豊かさの中での過剰消費を批判する造語として使われていましたが、1997年の為替危機が韓国経済に壊滅的な打撃を与えると、1990年代後半の雰囲気は180度変わりました。
危機の衝撃は、オレンジ族文化を以下のように崩壊させました。

1997年の為替危機は、アジア全体を襲った大事件でした。

同年夏にタイで始まり、マレーシアやインドネシアなどの東南アジア諸国に波及し、秋には韓国を襲いました。

連鎖的に企業が倒産し、外貨準備高が急落する中、韓国は最終的に1997年12月3日にIMFとスタンバイ協定を締結し、195億ドルの緊急支援を受けました。

1997年にIMF(国際通貨基金)の支援の下、国家経済の抜本的な構造改革が始まりました。
多くの企業が倒産や経営危機に直面し、その結果、大量解雇と景気悪化が起こり、国民全体が甚大な苦難を強いられました。

1997年に5.8%だったGDP成長率は、1998年第3四半期には-8.7%に急落しました。

1997年を通して、大手財閥が次々と倒産しました。三美(3月)、真露(4月)、大農と韓信(5月)、起亜(7月)、ヘテとニューコア(11月)、韓国証券と漢拏(12月)です。

By Cafesba , 15 2月, 2026

20世紀後半の韓国のコーヒー文化はタバンが中心でしたが、1990年代になると、それまでの伝統的なタバンは減っていき、
コーヒーショップやカフェとして、コーヒー店が開業されることが増えました。

1987年に韓国は軍事政権が終わり、大統領を直接国民が選挙で選ぶ民主制になりました。1988年にはソウルオリンピックが
開催され、韓国の経済発展を象徴づけました。

この民主化による自由な空気と経済発展により韓国のコーヒー業界にも変化がありました。
90年代前半から中盤にかけて、ソウルで最もおしゃれな場所といえば江南(カンナム)の狎鴎亭洞(アックジョンドン)でした。
ここには、富裕層の若者が集まる洗練されたカフェが点在していました。

親の莫大な富を背景に、外車を乗り回し、海外ブランドを身にまとい、贅沢な消費を楽しむ若者たちが出現しました。
このような若者たちはオレンジ族と呼ばれました。
オレンジ族の由来は諸説ありますが、当時のファッションやライフスタイルにおける「オレンジ色」のポップで派手なイメージで、
明るく目立つ新世代文化の象徴だったという説が有力です。

現代百貨店アックジョン本店の向かい側にあった「マクドナルド(韓国1号店)」周辺で彼らは活動をしていました。

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By Cafesba , 14 2月, 2026

1920年代後半に日本の喫茶店文化の影響を受けて誕生したタバン文化は、1950年代初頭までは知識層と文化芸術関係者が中心でした。
朝鮮戦争後、社会は徐々に安定し、米軍が持ち込んだインスタントコーヒーが普及し、コーヒーも徐々に普及しました。
ここから韓国特有のタバン文化が進展します。

 

■鶴林茶屋
1956年、ソウル大学文理学部があった東城洞に「鶴林茶屋」がオープンしました。

当時、文理学部には24の講義室があり、鶴林茶屋は「25講義室」という愛称で呼ばれ、まじめな知識人のための空間でした。
大学生たちがタバンに集まるにつれ、タバンで流れる音楽はポップソングへと変化していきました。
タバンにはレコードプレーヤーが設置され、1960年代半ばには、明洞、鍾路、忠武路にDJブースを備えた音楽茶屋が登場しました。

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By Cafesba , 8 2月, 2026

日本統治時代直後、日本人は明洞の鍾谷峠に喫茶店(キッサテン)を構え、コーヒーの営業を始めました。
ソウルには日本人が経営する2階建てのサロン「靑木堂(チョンモクダン)」が登場し、1914年には朝鮮ホテルが建設されました。
これは日本統治時代における最高級のホテル兼喫茶店として機能しました。
この頃には西洋文化が広く浸透し、日本や西洋で学んだ知識人たちが独自の文化圏を築き上げていたため、喫茶店が誕生する条件が整いました。
1923年頃になると、近代的な喫茶店が登場し始めました。その先駆けとなったのが、明洞の日本人経営の「二見」と忠武路の「金剛山」です。
特に二見は、レストランではなく喫茶店として営業する、近代的な喫茶店の先駆けとなりました。
その後、1927年、映画監督李慶孫(イ・ギョンソン)は観勲洞(クァンフンドン)の入り口に「カカデュ」という喫茶店を開業しました。
彼はは、『春熙(チュンヒ)』や『長寒夢(チャンハンモン)』などの映画を制作し、喫茶店ではイ・ギョンソン本人がタキシードを着て直接コーヒーや紅茶を淹れてサービスをしていたと言われます。
フランス革命を背景にしたオーストリア劇作家アルトゥア・シュニッツーラーの戯曲「青いオウム」からオウムというフランス語「カカデュ」を店名にしたと言われます。

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By Cafesba , 7 2月, 2026

1900前後に日本で喫茶店が黎明期を迎えていた時代、1902年頃の韓国ではソウルの貞洞で、フランス系ドイツ人、アントワネット・ソンタクが朝鮮半島で最初の西洋式ホテル「ソンタクホテル」を開業しました。
彼女は1885年、初代駐韓ロシア公使カール・イワノヴィチ・ベーベル(Veber)一行に同行してソウルに入国しました。
ベーベルの義理の姉(または義理の妹)とされ、ロシア公使館と宮中をつなぐ連絡役のような立場を担いました。
彼女はドイツ語・フランス語・英語・韓国語を話せるマルチリンガルで、通訳や仲介役として朝鮮王室と西欧勢力の間を取り持ったと伝えられています。
ソンタクは、ロシア公使館と宮中の連絡役として、朝鮮をロシア寄りに導き、清国から距離を置かせるよう働きかけた人物とされています。

高宗の信任を得て、宮中で西洋料理や室内装飾などを担当し、王室の生活に西洋式文化を導入する役を担いました。
1895年、高宗は彼女の功績を認め、現在のソウル市中区貞洞一帯にあたる土地と家屋(後のイギョン・梨花女子高校敷地)を下賜しました。

この建物をソンタクは賓客を迎えるための西洋風応接・宿泊施設に改装し、これが「ソンタク賓館」の始まりとされています。

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By Cafesba , 1 2月, 2026

明治期の頃の喫茶店やレストランはコーヒー豆を、自分の店で焼く今でいう自家焙煎の店が多かったです。今と比較して、コーヒーを飲む習慣がなく、コーヒーを出す店も少なく、コーヒー豆に需要が無かったからです。

しかし、1911年頃から徐々にコーヒーを出す店を増えて来て、コーヒー豆の焙煎を代行する需要も増えてきました。
こうした中カフェ―パウリスタでも働いていたことのある柴田文次は
1920年(大正9年)、横浜市中区福富町でコーヒー商「木村商店」を創業しました。

当初は各国産コーヒー豆の焙煎加工卸や食料品販売を行い、後に「コーヒーシロップ」などの加工品がヒット商品になります。

1923年の関東大震災で店舗を焼失しますが、10日後には横浜市中区吉田町で再起し、焙煎機を整えて事業を再開しました。

1928年、商号を「木村コーヒー店」と改め、横浜市内に工場を設けてコーヒーの製造・販売を開始します。

この時に鍵のマークの「キー」ブランドが採用され、「コーヒーは日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ」という思想がロゴに込められました。

1929年には全面英語表記と鍵のマークが特徴的な「キー缶」が発売され、家庭でも本格的なコーヒーを楽しめるようになったと言われます。

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By Cafesba , 31 1月, 2026

ヨーロッパではベルエポック期だった頃の、日本の黎明期の喫茶店文化を支えたコーヒー豆の焙煎はどのように行われていたでしょうか。

1920年以前、日本には現在のような「コーヒー豆の焙煎を専門とする業者(ロースター)」はほとんど存在しませんでした。

当時は「喫茶店が自分で焙煎する(自家焙煎)」か、「輸入食品店や茶商が店先で焙煎する」のが一般的でした。

放香堂(1878年喫茶開始): 神戸の茶商ですが、インドからコーヒー豆を輸入し、店頭で焙煎して提供していました。当時は電動ミルもなかったため、石臼で挽いていたという記録も残っています。

可否茶館(1888年創業): 東京上野の喫茶店でここでもさまざまな種類の生豆を仕入れ、店内で焙煎・抽出していました。

東京
銀座界隈の1920年以前(主に明治末〜大正初期)では、焙煎は喫茶店自体や輸入・販売を兼ねた商社・店が担っていました。

カフェーパウリスタ(1911年銀座6丁目開業)
ブラジル産コーヒー豆を輸入し、焙煎・販売・喫茶を直営で展開した日本最古級の喫茶店です。ブラジル移民支援とコーヒー普及を目的に設立され、焙煎を自社で担っていました。

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