Taiwan

By Cafesba , 6 6月, 2026

周夢蝶の屋台書店がきっかけで文人の集まるカフェになる

1959年、明星の軒下に小さな屋台書店が一つ増えました。

当時ロシア人オーナーアスニンらは明星を手放す算段をしており、店内では株主の争いが続いていて、店外の屋台にはまったく構う余裕がなく、屋台はそのまま放置されました。

翌年、簡錦錐(チエン・ジンヂュイ)は明星の唯一のオーナーになりましたが、それでも店先に座っているのが各紙誌に作品が載る詩人だとは知りませんでした。


きっかけは、周夢蝶(ジョウ・モンディエ)が店先で倒れた事件でした。

簡錦錐は「私は彼をまったく知らなかった。彼が廊下で倒れた日、救急車を呼んで病院に運んだ。周夢蝶は目を覚ますと『すみません、三日間食べていなかったのです』と言った」と語っています。

本を一冊売って初めて一食分の金になる暮らしだったと知り、それで彼が周夢蝶だと分かったのです。


彼は店の客であると同時に、店先の名物でもありました。

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By Cafesba , 31 5月, 2026

日本統治時代の終焉

1937年の日本のコーヒー前の輸入はピークに達しましたが、盧溝橋事件以降日中戦争が全面戦争になり、さらに1941年に太平洋戦争へ進む中で、外貨・船舶・輸入統制が強まり、コーヒーのような嗜好品の輸入は優先順位が下がりました。

さらに1941年、日本とアメリカの間で太平洋戦争が勃発しました。

その後すぐに、ブラジルはアメリカの連合国側に入り、1942年に日本との国交を断絶しました。

これによりブラジルからの輸入が大幅に減少しました。

一方で台湾では、コーヒーの栽培面積は1942年頃まで増え続け、1942年に1000ヘクタールまで増えました。

台湾コーヒーがこの時期、単なる嗜好品農業というより、「外貨を使わずに帝国内でコーヒーを調達する代替供給源」として期待されたからです。

1937年以降、ブラジル・インドネシアなどからの輸入が難しくなるほど、日本側には台湾産コーヒーを増やす動機がありました。

ただし、注意点があります。

面積は増えても、実際に安定して日本本土へ大量供給できたわけではありません。 

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By Cafesba , 24 5月, 2026

清朝末期の台湾のコーヒー文化

1800年代中盤、清朝末期の中国では上海や広州はすでにすでに貿易港として栄え、西洋文化に触れ始めていました。

1842年のアヘン戦争(イギリスと清の間での戦争)後に結ばれた南京条約によって開港されたからです。

台湾が西洋文化に触れるきっかけになったのは、1860年の淡水、安平の開港でした。

これはアロー戦争(イギリス・フランスと清の間での戦争)後の天津条約・北京条約によって開港されたからです。

これによって清朝台湾でも欧米商人が関わる国際貿易の拠点となりました。

開港後、英国商人ジョン・ドッドと台湾商人李春生は、台湾北部の茶に注目し、福建から茶苗や製茶技術を導入し、台湾烏龍茶を輸出商品に育てました。

烏龍茶は甘みの有る味のみならず、茶を淹れると白、金、黃、緑、紅の色を有し、ヴィクトリア英女王に献上された後に、Oriental Beauty(東方美人)と命名された。

これにより台湾茶葉の名声が高まり、徳記、怡和、美時、義和、新華利という5大茶行が淡水近くの大稲埕(ダーダオチェン)に支社を開設、イギリスやアメリカ向けに大量に輸出されるようになりました。

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