1960年代台湾の文人の集まるカフェとなった明星珈琲館

By Cafesba , 6 6月, 2026
1960年代の重慶南路

周夢蝶の屋台書店がきっかけで文人の集まるカフェになる

1959年、明星の軒下に小さな屋台書店が一つ増えました。

当時ロシア人オーナーアスニンらは明星を手放す算段をしており、店内では株主の争いが続いていて、店外の屋台にはまったく構う余裕がなく、屋台はそのまま放置されました。

翌年、簡錦錐(チエン・ジンヂュイ)は明星の唯一のオーナーになりましたが、それでも店先に座っているのが各紙誌に作品が載る詩人だとは知りませんでした。


きっかけは、周夢蝶(ジョウ・モンディエ)が店先で倒れた事件でした。

簡錦錐は「私は彼をまったく知らなかった。彼が廊下で倒れた日、救急車を呼んで病院に運んだ。周夢蝶は目を覚ますと『すみません、三日間食べていなかったのです』と言った」と語っています。

本を一冊売って初めて一食分の金になる暮らしだったと知り、それで彼が周夢蝶だと分かったのです。


彼は店の客であると同時に、店先の名物でもありました。

一階の入り口で周夢蝶が詩集を売り、上階のレストランでは黄春明(ホアン・チュンミン)・白先勇(パイ・シェンヨン)・林懷民(リン・ホアイミン)・三毛(サンマオ)らがコーヒー店を第二の我が家のようにして次々と大作を仕上げていきました。


体の弱い周夢蝶が重い古本を毎日運ぶのを見かねて、オーナーはこう申し出ます。

「周さん、これからは店じまいしたら本を武昌街五号の茶屋に預けて、もう運ぶのはやめてください。茶屋の主人にはもう話をつけてありますから」と言いました。

簡錦錐は実ははすでに武昌街七号・五号の店舗を買い戻しており、老周のために茶屋の主人に閉店後のスペースを空けてもらったのです。

周夢蝶の存在は文学サロンの核でもありました。

毎週水曜の夜7時から9時半まで、二階で周夢蝶の文学集会が定例で開かれ、詩や芸術を語り合う文化サロンとなっていました。 


明星珈琲館に集った文人たち

「台湾の現代詩・現代小説は明星の香りの中で花開いた」という名言の主が白先勇です。

彼とこの店の縁は、ロシア料理のボルシチ(羅宋湯)と結びついています。

簡錦錐の回想録の目次には「白先勇とASTORIAのボルシチ」という一節が立てられているほどです。

文学史的に重要なのは、雑誌の編集拠点になっていたことです。

三階の大部屋では『現代文学』と『文学季刊』が編集されていました。

白先勇が主導した『現代文学』はこの店から生まれた台湾現代文学の金字塔のひとつです。

旅と放浪の作家として絶大な人気を誇った三毛(サンマオ)も常連でした。

簡錦錐の回想録には「『晩安曲』より遅くまでいた三毛」という印象的な章題があります。

「晩安曲(おやすみの曲)」は当時テレビ放送終了時に流れた曲で、それより遅くまで店に居続けたという、彼女の長居ぶりを物語る逸話です。

三毛は明星をまさに第二の家のように使っていました。


明星の「居心地」を最もよく伝えるのが、女性作家・季季(ジージー)のエピソードです。

季季は明星珈琲館でいつも16元のレモン水を一杯頼み、そのまま一日中座って、ここで『屬於十七歲的』を書き上げました。

1964年冬には聯合報への投稿で、濃く濁った液体であるコーヒーが好きではないからレモン水を飲むのだと書いています。

この「居座っても追い出さない」という店の方針こそ、文人が集まった理由でした。

レモン水を頼んで一日中座っていても店主は客を追い出さず、逆にボルシチを頼むと店主が驚いた、という様子でした。


郷土文学の旗手・黄春明にまつわる章題は「黄春明の育児テーブル」。

彼は明星のテーブルで原稿を書きながら子育てもしていた、という生活そのものが店にあった様子がうかがえます。

黄春明は『文学季刊』の寄稿者の一人でした。 


華やかな文人交流の裏で、当時の政治的緊張も店に及んでいました。

1966年、尉天驄(ユー・ティエンツォン)・陳映真(チェン・インヂェン)・姚一葦(ヤオ・イーウェイ)・劉大任(リウ・ダーレン)・七等生(チー・ドンション)らが三階で雑誌『文学季刊』を立ち上げましたが、この雑誌が原因で警備総司令部(警総)が店に来て、店側が左派を支援していると言いがかりをつけました。

陳映真らが雑誌『文学季刊』を編集していたことで、戒厳令期の「黒服の男たち」が店に乗り込んで尋問しました。

このように明星は、台湾文学の輝きと戒厳令下の抑圧が交差する場所でもありました。



オーナー簡錦錐の作家の長居に対する店の方針 

簡錦錐を語るうえで欠かせないのが、作家に対する並外れた寛容さです。

これは彼自身の戦時体験に根ざしていました。

幼い頃に戦乱に遭い、落ち着いて勉強できる「机」に憧れを抱いていたため、作家には安心して書ける無料の机を提供したのです。

その姿勢を象徴するのが、黄春明への対応です。

黄春明は当時、一杯六元のコーヒー、十五元の炒飯で一日数十元の出費が良い部屋を借りるより割に合ったと回想しており、明星が長居する客を決して追い出さなかったため、ここで『さよなら・再見』『小寡婦』などを書き上げました。

後に二階が混んでくると、簡錦錐は黄春明を三階に案内し、執筆専用の机を一つ用意しました。 


開業当初から店づくりに工夫を凝らしています。

当時の台湾の床は黄土か粗いセメントが普通でしたが、この店は一面の木の床で、コーヒー豆を挽いた時のかすを床に通路を敷き、階段を上るとすぐ濃厚なコーヒーの香りがするようにしてありました。

食通の唐魯孫(タン・ルースン)は、ここの食べ物を台湾の一般的な日本式洋菓子より上等だと評価しました。

その品質は政界・外交界にも認められていました。

1974年に外交官試験を通って外交部に入った王豫元(ワン・ユーユエン)は、当時、部が外国の賓客をもてなす菓子の多くが明星珈琲館のものだったと回想しており、おそらく蒋経国との関係もあって、部の上司たちはみな明星の洋菓子を好んだといいます。


明星珈琲館のある重慶南路は一大書店街だった

文人が集まった背景には、立地の事情がありました。

まず規模感です。

明星珈琲館のある全盛期の重慶南路には、文字通り数百メートルに百軒を超える書店がひしめいていました。

義務教育の発展とともに本を読み・買う人が増え、書店街には出版社や各種の書籍・文具を売る書店が次々と進出し、群集効果が「書店一条街」という非凡な景観を生み出しました。

全盛期には、わずか数百メートルの間に百軒を超える書店が立ち並んで軒を連ね、騎楼(アーケード)にも各種の書報屋台が並び、重慶南路は最も著名な「書店街」となりました。

1960年代、重慶南路に書店が立ち並ぶようになると、書店街は多くの画家・作家・詩人といった文人たちを惹きつけ、彼らは書店巡りの後にここでコーヒーを飲むようになり、台湾文学作家が集う場となったため、明星珈琲館は「台北永遠の文学のランドマーク」と呼ばれるようになりました。

台北駅に近い地理的優位に加え、予備校や政府機関がここに集まっていたため、国民政府とともに移ってきた多くの書局がここに居を構えることを選びました。

駅に近く、官庁や学習塾が密集する知識人の集まる一帯——だからこそ書店が集積したのです。

そして文人たちはこの書店街を一日かけて巡り、その締めくくりに明星珈琲館でコーヒーを飲みました。

「雑誌は文星(雑誌『文星』で知られた書店)を読み、コーヒーは明星を飲む」という言い回しは、この街の文化そのものを表していました。

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