清朝末期の台湾のコーヒー文化
1800年代中盤、清朝末期の中国では上海や広州はすでにすでに貿易港として栄え、西洋文化に触れ始めていました。
1842年のアヘン戦争(イギリスと清の間での戦争)後に結ばれた南京条約によって開港されたからです。
台湾が西洋文化に触れるきっかけになったのは、1860年の淡水、安平の開港でした。
これはアロー戦争(イギリス・フランスと清の間での戦争)後の天津条約・北京条約によって開港されたからです。
これによって清朝台湾でも欧米商人が関わる国際貿易の拠点となりました。
開港後、英国商人ジョン・ドッドと台湾商人李春生は、台湾北部の茶に注目し、福建から茶苗や製茶技術を導入し、台湾烏龍茶を輸出商品に育てました。
烏龍茶は甘みの有る味のみならず、茶を淹れると白、金、黃、緑、紅の色を有し、ヴィクトリア英女王に献上された後に、Oriental Beauty(東方美人)と命名された。
これにより台湾茶葉の名声が高まり、徳記、怡和、美時、義和、新華利という5大茶行が淡水近くの大稲埕(ダーダオチェン)に支社を開設、イギリスやアメリカ向けに大量に輸出されるようになりました。
1869年に約13万kg近い烏龍茶をニューヨークへ輸出して好評を得たことが、台湾茶の欧米市場開拓の先駆けになったそうです。
ここから「Formosa Tea」が世界市場で知られるようになります。
このように、国際貿易を始めてから茶の生産国として輸出する一方、当時はコーヒーを飲む習慣はまだなく、
ただし、台湾茶の生産地があり、その商社も集まっている大稲埕も集まっていることから、茶の文化が栄えました。
茶館もありましたし、高級な 茶藝館・茶楼 もありました。
大稲埕の茶行(茶葉商社)には必ず試飲室があり、外国バイヤー、仲買人、品質検査官がそこで茶を飲み比べていました。
商業空間ではありますが、「人が集まって茶を飲む」という機能としては、現代のスペシャルティコーヒー店のテイスティングカウンターに非常に近いものがあります。
天秤棒を担いで湯と茶葉を売り歩く行商茶担(チャーターン) は市場や港で労働者向けに一杯売りをしていました。
茶亭という街道・峠・港にある休憩所で旅人に無料または安価で茶を提供する施設もありました。
また寺廟や民家の前に置かれた、通行人に無料で茶を提供する善意の壺奉茶(ホンチャ)の習慣もありました。
このようにお茶が伝統的にも、産業的にも人々に根付いていたため、まだコーヒーの出る余地はありませんでした。
当時の台湾では海外の商人用のホテルはまだなく、各国の領事館のゲストルームに滞在したり、商社のベッドルームに滞在していました。
こうした施設には、西洋人滞在者向けの洋酒やコーヒーが準備されていたまだカフェができるほどではありませんでした。
台湾でのコーヒー栽培
1884年頃、英国系の貿易商社 德記洋行(Tait & Co.) のブルース(Bruce)という人物が、マニラ(フィリピン)から100株のコーヒー苗を持ち込み、台北の三峡(現在の新北市)・楊梅(現在の桃園市)あたりに植えたとされています。
これらは商業ベースには乗らず、ほぼ実験的・庭園的なレベルでしたが、「台湾でコーヒーが育つ」ことは実証されていたわけです。
1895年、日清戦争の後、台湾は日本の統治下になります。
日本統治時代の台湾では、「農業は台湾、工業は日本」という政策が掲げられていました。
つまり台湾は最初から、本土では作れないものを作る役割を割り当てられていました。
当時の列強(英・仏・蘭・米)はすでに植民地で熱帯プランテーション作物を独占していました。
- 英国:インド・セイロンの紅茶
- オランダ:ジャワのコーヒー・砂糖
- フランス:インドシナのコーヒー・ゴム
- 米国:フィリピン・ハワイの砂糖
このことから、日本もコーヒー・ゴム・キニーネ・バニラなど 本土で絶対に栽培できない熱帯作物 を台湾で生産することは、帝国としての必然的な発想でした。
総督府には殖産局(産業振興局)が設置され、初代局長として 橋口文蔵 が着任します。
1896年、橋口の指示で 横山壮次郎 が南投県埔里にコーヒーの播種を実施しました。
これが日本統治下の最初の公式試験栽培です。
「札幌農学校」を前身とする北海道帝国大学は農業研究において多くの人材を輩出し、彼らは主に台湾総督府の殖産局で重用され、台湾の農業の発展に貢献しました。
新渡戸稲造ら札幌農学校系の農学者たちが、寒冷地仕様だった日本の農学を熱帯仕様にアップデートする実験場として、台湾を活用したわけです。
台湾で生産されたコーヒー豆は1907年に東京で開かれた勧業博覧会や、1915年の大正天皇の即位式で献上され、高評価を受けました。
日本でのコーヒー需要の増大
以下のページで話した通り、明治日本では、コーヒーが急速に普及しつつありました。
明治末から大正にかけて、コーヒーは「文明開化の象徴」として中産階級に広がりました。
明治維新以降、コーヒーを、文化開花を匂わせてくれる飲み物として受け入れ始めていました。
問題は、当時の日本がコーヒーを 全量輸入(主にブラジル産)に頼っていた ことでした。
日本は、台湾を統治しコーヒーの生産基地を得ました。
外貨流出を抑え、自給を実現するため、領内でのコーヒー生産は経済合理性のある選択だったのです。
1930年は雲林県古坑にコーヒー試験場が設置されました。
1938年に笹尾修道が埔里の北海道帝国大の演習林でコーヒーの本格的な栽培に成功しました。
台湾の山間部が持つ「昼夜の寒暖差」「適度な降雨量と日照」「水はけの良さ」は、アラビカ種コーヒーの生育条件と完璧にマッチしていました。この圧倒的な品質の高さが証明されたことで、日本の大手企業(三菱や木村コーヒー店=現キーコーヒーなど)が大規模な農場開発(プランテーション)に投資を開始し、一気に産業化が加速しました。
1941年に台湾全土の栽培面積が約1000ヘクタールに拡大しました。
日本統治下の台湾のカフェ文化
1895年に台湾が日本統治下に入ると、台湾の茶・砂糖・樟脳などを帝国内外へ売り出す政策が進みました。
この時期の「喫茶店」は、現在のカフェというより、台湾茶を宣伝・販売するための展示型の飲食空間に近いものでした。
重要なのは、1900年のパリ万国博覧会です。台湾側は博覧会で「台湾喫茶店」を設け、来場者に台湾茶を飲ませて好評を得ました。これをきっかけに、大稲埕の茶商公会などが、博覧会や日本国内外の場で台湾茶を売り出すために「喫茶店」という形式を活用していきます。
つまり、台湾における喫茶店の初期形態は、コーヒー文化ではなく、台湾茶の近代的プロモーション空間だったと言えます。
日本統治下以降、西洋の文化も台湾でも広まっていき、1897年主に台北の西門郊外に西洋料理とワインを提供する西陽軒がオープンしました。
台湾日報に掲載された開店広告には「コーヒーと茶室」という言葉が含まれており、コーヒーの一般客への提供が始まりました。
1912年には篠塚初太郎が創業した台北初の女性給仕による接客付きの「酒類提供型」カフェー・「ライオン」がオープンしました。
このカフェでは、当時の台湾総督府の官僚や、商人、医師、弁護士、学者、新聞記者、僧侶、画家、書家などが定期的に参加する会合が開かれていたということです。
1931年になると、維特珈琲(ヴェルテル珈琲)の開業です。
創業者の楊承基は明治大学を卒業し、台湾日日新報の記者を務めた人物で、画家・楊三郎の兄でもありました。太平町三丁目の路口の2階に開いたこの店の名は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に由来します。
当初は純喫茶として「咖啡サロン」路線を打ち出し、文化人の集会場を目指していましたが、経営が振るわず、翌年には女給を置く酒家式カフェに転換せざるを得ませんでした。
この維特珈琲は、後に大稲埕の文化ネットワークの起点となる重要な店でした。
台湾の喫茶史で最も象徴的な店が、1934年に大稲埕で開業した波麗路(ボレロ)です。古典音楽を愛した廖水来が開いたこの店の名は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの同名楽曲から取られました。店内には高級音響機器が備えられ、壁には顧客が即興で創作できるキャンバスが掛けられていました。
ここに集った人々の名前を見ると、当時の台湾文化界の縮図が浮かび上がります。
画家の郭雪湖、張万伝、楊三郎、作家の張文環、呂赫若などが常連客となり、廖水来自身が画家たちのマネージャー兼パトロン的役割を果たし、波麗路は台湾美術史上の重要な場所となりました。
興味深いのは人材の流れです。波麗路の創設者・廖水来はかつて維特珈琲で主厨を務め、後に山水亭を創業する王井泉も維特で経理職を務めていました。維特珈琲が一種の「人材育成の場」になっていたわけです。
1939年に開業した「山水亭」は台湾料理店でしたが、店主の王井泉(人称・古井)が文芸を愛し、文人を支援することに惜しみがなかったため、多くの文化人が集いました。呂赫若、張文環、巫永福といった作家たち、さらに「日本至上」に不満を持つ日本人文人——考古学者の金関丈夫や台北帝大文学部長の矢野峰人なども常連となりました。
台湾も日本と同様いろいろなタイプの喫茶店が開店し1937年(昭和12年)にはコーヒー豆輸入量が日本全体でピークを迎えます。
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