北朝鮮金正日から金正恩への権力の移行と平壌でのカフェ文化の勃興

By Cafesba , 18 10月, 2026
ザッハーズコーヒーのメニュー

苦難の行軍の食糧危機以降、北朝鮮ではチャンマダンがあちこちで開かれ、共産主義の配給は崩壊し、市場経済が発生しました。

しかし、当局が苦難の行軍の終結宣言を出した後も、国際的な支援は続いていました。

この支援団体のうち、スイスの支援団体のADRAによって、2005年、北朝鮮草分けとなるカフェが開業しました。

この後、金正日の後継者となった金正恩の時代に平壌で相次いでカフェが開業されます。

大学生や若いカップルがカフェで時間を過ごすこと自体が新しいライフスタイルになりました。

かつて北朝鮮で外食店は「食事をする場所」という性格が強かったのに対し、カフェではコーヒー一杯を飲みながら話をするという、現代的な余暇消費が生まれています。


ピョルムリ・カフェ(별무리 카페) 

ピョルムリ・カフェは、スイスの支援団体が中心となって開設したカフェです。

当時の北朝鮮ではスイス政府やスイス系NGOが、人道支援だけでなく、農業技術の指導や食品加工、経済開発支援まで行っていました。

特に興味深いのは、ピョルムリ・カフェは単なる営利目的の飲食店ではなく、北朝鮮の子どもたちにパンを届ける人道支援事業と結びついていたことです。

ADRAは Adventist Development and Relief Agency の略で、セブンスデー・アドベンチスト教会に由来する国際的な人道支援団体です。

本部は米国にありますが、北朝鮮のプロジェクトにはスイス支部が深く関与していました。

国際NGOのADRAが、スイスの小売業ミグロとスイス支部の資金協力を受け、北朝鮮政府の支援のもとで開業したということです。

開業した目的はカフェで利益を上げ、その収益によって子どもたちへの食糧支援を継続することでした。

ADRAの2005年の発表によると、関連するパン工場では、毎日約5トンのパンや栄養強化ビスケットを生産していました。

さらに2005年8月の韓国MBCの報道では、カフェはもともと外国人向けに開かれたものの、ピザなどの西洋料理を食べようとする北朝鮮住民も訪れていたと紹介されています。

ピョルムリ・カフェが開業してからわずか数か月後、北朝鮮政府は国際NGOに対し、援助事業の終了と外国人職員の撤退を求めました。

北朝鮮政府の公式な説明は、緊急的な食糧援助から長期的な開発協力へ移行するというものでした。

しかし実際には、開発協力を行っていたNGOも撤退を求められました。

その後、運営は北朝鮮側(国営)へと完全に引き継がれ、金正恩時代に最新のカフェが乱立してからは「少しレトロな老舗カフェ」という立ち位置になりましたが、長らく営業を続けてきました。


NGOに撤退を求めた背景

実際には、当時の北朝鮮が自力で食糧問題を解決できたわけではありませんでした。

金正日氏が西側のNGOを追い出そうとした本当の理由は、「体制の引き締め(スパイ・情報流入への警戒)」と「中韓からの『監視なしの支援』への依存」にあります。

(1)外国人職員による「国内の監視(モニタリング)」を嫌ったため

国際NGOや国連世界食糧計画(WFP)は、支援物資が軍や特権層に横流しされないよう、「どこで、誰に配られたか」を確認する厳格なモニタリング(地方への立ち入り調査)を条件としていました。

外国人スタッフが北朝鮮の地方都市や農村を回り、住民と直接接触したり国内の窮状を目撃したりすることを、金正日政権は「事実上のスパイ行為(体制を揺るがす危険要素)」として強く警戒していました。

(2)市場(チャンマダン)の規制と「配給制の復活」による統制強化

2002年の経済改革以降、北朝鮮国内では市場(チャンマダン)が拡大し、国民が国家に頼らず自力で商売をして生きる風潮が強まっていました。

危機感を覚えた金正日政権は、2005年10月から「市場での穀物売買の禁止」と「国家による食糧配給制の全面復活」を強行しようとしていました。

(3)中国と韓国からの「条件なしの莫大な支援」があったため

当時、韓国は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下で「太陽政策(包容政策)」を進めており、中国も経済協力を拡大していました。

欧米のNGOや国連が「人権問題」や「厳格な分配確認(モニタリング)」をうるさく要求するのに対し、韓国や中国は厳しい監視条件をつけずに年間数十万トン規模の食糧や肥料を直接北朝鮮政府に提供してくれました。

金正日氏は「口うるさい欧米のNGOを追い出しても、中韓からの支援があれば十分にやっていける」と計算したのです。

(4)米国からの「人権批判」への反発

2004年にアメリカで「北朝鮮人権法」が成立し、2005年には国連で北朝鮮の人権侵害を非難する決議が採択されるなど、国際社会からの圧力が高まっていました。

これに対し、北朝鮮は「人道支援を口実に、我々の体制を内部から崩壊させようとしている」と反発し、NGOの締め出しに動きました。


金正日の後継者、金正恩

2008年夏、金正日が脳卒中で倒れたとされる出来事があり、健康不安から後継体制づくりが急がれ、長兄の金正男(海外生活が長く、2001年に偽造旅券で日本に入国しようとして拘束された件などで評価を落としたとされる)や、次兄の金正哲(政治に不向きとみられた)ではなく、三男の金正恩が選ばれたと見られています。

2009年初めには後継者として内定し、党や軍の幹部に通知されたとの報道が出ました。

この頃から「青年大将」といった呼び名で、内部で個人崇拝の準備が進められたとも伝えられています。

2010年9月の朝鮮労働党代表者会で、人民軍大将の称号を与えられ、党中央軍事委員会副委員長に就任しました。

これが初めて公の場に名前と写真が出た瞬間で、以後は父に同行して軍部隊や工場などの現地指導に頻繁に姿を見せるようになります。

後見役としては、叔母の金敬姫とその夫の張成沢が重要な役割を担ったとされます。

2011年12月17日に金正日が死去すると、金正恩はすぐに「偉大な後継者」と位置づけられ、同月末に人民軍最高司令官に就任しました。

翌2012年4月には党第一書記、国防委員会第一委員長に就き、党・軍・国家の最高ポストをすべて手にしました。

当時まだ20代後半で、後継者として公に知られてからわずか1年あまりという、非常に短い準備期間でした。


張成沢の粛清

2013年12月、張成沢氏は党の会議の場から軍人によって引きずり出される映像が異例の形で公開され、「国家転覆陰謀行為」や「腐敗」「売国行為」などの罪状で逮捕、そのわずか数日後に特別軍事裁判で死刑判決を受け、即日処刑されました。

張成沢が金正恩を補佐する立場でありながら、党・治安機関・経済部門に独自の人脈を持っていました。

張成沢は金正日政権からの有力者で、金正恩よりはるかに長い政治経験を持っていました。

2011年に金正日が死亡した際、金正恩はまだ20代でした。

そのため張成沢は、新しい最高指導者を支える後見人として重視されました。

しかし、金正恩の権力が固まるにつれて、張成沢の影響力が単独指導体制への潜在的な脅威と見なされた可能性があります。

米国の戦略国際問題研究所(CSIS)も、張成沢とその人脈が金正恩の一元的な指導体制に対する脅威と認識された可能性を指摘しています。

張成沢は中国との経済協力を推進した人物でもありました。

特に北朝鮮の羅先経済特区や黄金坪・威化島の開発に関与し、中国側と交渉していました。

北朝鮮当局は、張成沢が羅先経済特区の土地を外国に長期間提供したことなどを国家への裏切りとして非難しています。

当時、張成沢氏は軍部が独占していた石炭や海産物の中国輸出の利権を取り上げ、党や内閣の管轄に移そうとしていました。

これに反発した軍部や他の側近(崔竜海氏や国家安全保衛部など)が金正恩氏に働きかけ、利権奪還をめぐる武力衝突が起きたことが直接の引き金になったという説が有力です。

若くしてトップに就いた金正恩氏にとって、圧倒的な人脈と資金力を持ち、時に自分の指示にすら口出しできる「後見人」の叔父は、完全な独裁体制を築く上で最大の障害になっていました。

張成沢氏は中国指導部と極めて太いパイプを持っていました。

万が一、中国が金正恩体制に不満を持った際、張成沢氏(あるいは彼が保護していたとされる金正男氏)を「代替の指導者」として擁立するのではないかという疑心暗鬼もあったと見られています。


リョングァン・コーヒーショップ

2011年10月に平壌中心部の朝鮮中央歴史博物館にリョングァン・コーヒーショップが開業しました。

オーストリア式のコーヒー専門店です。

ヨーロッパの企業家が直接関与し、北朝鮮の従業員にコーヒーの抽出技術や製パン技術を教えた本格的なウィーン式カフェです。

この店を構想したのは、ウィーンの実業家ヘルムート・ブランメンです。

ブラメンは2009年ごろ、コーヒー焙煎会社を経営するヘルムート・ザッハーズに北朝鮮進出の話を持ちかけました。

北朝鮮側との交渉には約2年かかりました。

その後、焙煎業者のザッハースとブランメンがオーストリア人のパン職人を連れて3月に平壌入りし、スタッフを訓練しました。

開店は2011年10月で、金正日の死去(同年12月)の直前、つまり金正恩時代が始まる境目の時期にあたります。


コーヒーショップの雰囲気

金日成広場という、軍事パレードや大衆行事の舞台となる国家の中心に、ウィーン風カフェがあるという組み合わせが最大の特徴です。

客は博物館の中で朝鮮革命史に触れたあと、朝鮮語で「カフェ」とだけ控えめに書かれた扉を抜けて、ホイップクリーム入りのウィーン風コーヒーを出される、と当時のドイツ紙は伝えています。

カフェの店内そのものについては、天井の高い、駅の待合室のような一室で、テレビではたいていウィンナ・ワルツの映像が流れていると紹介されています。

扉を抜けると「Helmut Sachers Kaffee」と書かれた黄色いコーヒーポット形のロゴが見えるとも書かれており、店内は比較的「ウィーン風」に整えられていたようです。

名前の「リョングァン(련광)」は、平壌の大同江のほとりにある歴史的な楼閣「練光亭(リョングァンジョン)」がありますが、これに由来するのかもしれません。

コーヒー、ホットチョコレート、店内で焼く菓子が中心で、価格は2〜6ドル程度とされ、広場を歩く一般の人が気軽に入れる値段ではないため、客はまばらなことが多いそうです。

開業当時の報道では、こうした高級店に通えるのは外国人や富裕層に限られ、広場では栄養不足の兆候が見える子どもや若い兵士が訓練している、という対比も描かれていました。


なぜ北朝鮮で開業したか、できたのか?

当時の北朝鮮で外国人がカフェを開業するには、北朝鮮側の許可や事業協力が必要でした。

しかも開業場所は、平壌の中心である金日成広場に面した朝鮮中央歴史博物館です。

ブラメンが北朝鮮の体制中枢(金日成広場のすぐ脇という特等地)でビジネスを成立させることができた背景には、オーストリアと北朝鮮の特殊な歴史的関係があります。

スイスと同様に永世中立国であるオーストリアの首都ウィーンは、冷戦時代から北朝鮮にとってヨーロッパにおける外交・金融・貿易(および指導部向けの高級品調達)の最大の拠点でした。

過去にはウィーンに北朝鮮系の「金星銀行」が存在していており、朝鮮労働党39号室の管理下で、不正な外貨獲得や資金洗浄、武器取引などの裏金・地下経済に関与していたとされています。

この銀行は2003年にオーストリア当局から不正関与の疑いで告発され、2004年頃に閉鎖されました。


リョングァンコーヒーの評価

リョングァンがコーヒー豆や器具を輸入するだけでなく、北朝鮮人の従業員に抽出技術まで教えていました。

それまで一部の人々がインスタントコーヒーとして知っていた飲み物を、バリスタがエスプレッソマシンで抽出し、客が店内で楽しむ。

この新しい形式が、金正恩時代のカフェ文化につながる先行事例となりました。


金正恩は少年時代の西欧でのカフェ文化に触れていた

北朝鮮の最高指導者としては珍しく、少年時代に西ヨーロッパの日常生活を経験した人物です。

金正恩氏は北朝鮮大使館の関係者の子どもという偽りの身分で、「パク・ウン」といった偽名を使ってベルンに滞在していたと伝えられています。

最初は英語で授業を行う私立のベルン国際学校に短期間通い、その後、ベルン近郊リーベフェルトの公立学校に移ったとされます。公立学校では、ドイツ語を学ぶ外国人生徒向けのクラスから通常クラスに進んだと報じられています。

金正恩がスイスで暮らしていた1990年代後半、北朝鮮国内では「苦難の行軍」による深刻な食糧危機が続いていたという対照です。

金正恩は、一般住民とはまったく異なる環境で西欧の豊かな消費生活に接していたことになります。

スイスはカフェ文化が発達している国です。

金正恩は少年時代に、ヨーロッパの喫茶店やレストランが日常生活に溶け込んでいる環境で暮らしていました。

スイスで金正恩氏の母親代わりとして一緒に暮らしていた叔母の高英淑(コ・ヨンスク)氏(後にアメリカに亡命)によると、叔母夫妻や家族と共にパリ(エッフェル塔やユーロディズニー)、イタリア、スイス国内の観光地やスキーリゾートを頻繁に旅行していました。

「普通の家族のように旅先のレストランやカフェで食事を楽しんでいた」とされており、ヨーロッパの街角にあるオープンカフェやベーカリーの風景には日常的に慣れ親しんでいました。

そして2011年末に権力を継承した後、平壌ではカフェ、レストラン、娯楽施設などの整備が進みました。

金正恩自身のスイス生活が、平壌のカフェ文化の発展に影響した可能性はあります。 

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