今年2026年は中国の文化大革命発動60周年です。
そしてこの文化大革命期の中国にも独特のコーヒー文化がありました。
■文化大革命の開始
第二次世界大戦終結後、共産主義体制になった中国は1950年代末、毛沢東が主導した急速な工業化・農業化政策「大躍進」は、無理な増産計画や自然災害が重なり、数千万人の餓死者を出す壊滅的な失敗に終わりました。
その結果、毛沢東の指導には強い批判が出て、この危機を収拾するため、劉少奇(国家主席)や鄧小平(党総書記)らが経済の立て直しを担いました。
彼らは市場原理の一部導入など、現実的な政策(修正主義的政策)を採用し、経済を回復させました。
毛沢東は指導部の一線から退きましたが、劉少奇らの政策が「資本主義に逆戻りしている」と強い危機感を抱くようになりました。
毛沢東は、ソ連でスターリン批判が起こり、資本主義的な要素が復活しつつある(修正主義)ことを強く警戒していました。
中国も同じ道を歩んでいると考え、党内の実権派を「資本主義の道を歩む実権派(走資派)」として排除しようと画策しました。
官僚化した党組織を動かせなくなった毛沢東は、党の枠組みを飛び越え、若者を中心とした大衆(紅衛兵)に直接語りかけ、既成の秩序を破壊させようとしたのです。
林彪が主導した「毛沢東語録」の普及など、毛沢東への個人崇拝が1960年代前半から意図的に強化されていました。これが文化大革命を支える大衆的な熱狂の基盤となりました。
■学生を中心に盛り上がる文化大革命
きっかけは1966年5月、北京大学の聶元梓らが大学当局を批判する大字報を掲げたことでした。
毛沢東がこれを支持したことで、大学から中学・高校へと運動が急速に波及しました。
学校の中で、まず政治的に意識の高い一部の学生が「紅衛兵」を名乗り始め、自発的に組織を結成していきました。
1966年6月以降、全国の学校で授業が停止されました。
これは決定的に重要な出来事です。
学生たちは突然、日常の構造を失いました。勉強も試験もなくなり、膨大な時間とエネルギーが行き場を失ったのです。
その空白を埋めたのが革命活動でした。
毛沢東語録の学習会、大字報の作成、批判集会への参加が日常を占めるようになり、革命活動が新しい「日常」となっていきました。
まず前提として、紅衛兵となった若者たちは生まれたときから中華人民共和国の教育体制の中で育っています。
幼少期から「少年先鋒隊」に加入し、赤いスカーフを巻いて革命の歌を歌い、階級闘争の物語を学びました。
教科書は革命の英雄譚と帝国主義・封建主義への憎しみで満たされており、「正しい側に立って戦う」ことが人間としての最も崇高な行為であるという価値観が自然に内面化されていました。
つまり、文化大革命が始まる前から、思想的な土壌はすでに耕されていたのです。
1966年8月から11月にかけて、毛沢東は天安門広場で計8回、延べ1100万人以上の紅衛兵を閲兵しました。
全国から集まった若者たちが毛沢東の姿を目にし、涙を流し、興奮で失神する者もいました。
この体験は多くの若者にとって人生最大の感動であり、「毛主席のために命を捧げる」という決意を固めさせるものでした。
宗教的な回心体験にも近い、圧倒的な集団的高揚の中で、個人としての冷静な判断は溶解していきました。
■文化大革命時の紅衛兵の活動
紅衛兵の代表的な活動が、旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を壊すという「破四旧」でした。
伝統的な書物や絵画の破壊、寺院、仏像、歴史的建造物、墓などの破壊、昔ながらの服装や髪型、しきたりの否定、家にある古い美術品や家系資料の没収・焼却などが行われました。
つまり、彼らは「古い中国」を革命の敵とみなして攻撃したのです。
紅衛兵は学校や職場で、「反革命」「ブルジョワ」「資本主義の道を歩む者」とされた人々を公然と批判しました。
紅衛兵は党幹部、教師、知識人、資本家出身者などを「階級の敵」として標的にしました。「批闘大会」と呼ばれる公開の吊し上げ集会では、対象者に三角帽をかぶせ、首から罪状を書いた札を下げさせ、長時間立たせたまま罵倒や暴行を加えました。
自己批判を強要され、でっち上げの罪を「告白」させられることも日常的でした。こうした迫害によって多くの人が命を落とし、あるいは自ら命を絶ちました。劉少奇や彭徳懐といった高位の指導者も例外ではありませんでした。
紅衛兵は「ブルジョア的」とみなされた家庭に押し入り、書籍、美術品、楽器、西洋風の衣服、宗教関連の品々などを没収・破壊しました。財産の没収や暴力を伴うことも多く、住民にとっては恐怖の対象でした。
毛沢東の呼びかけにより、紅衛兵は無料で鉄道に乗って全国を移動することが許されました。これは「革命経験の交流」という名目で行われ、各地の紅衛兵組織が連携を深める役割を果たしました。
文化大革命の過程で、公安(警察)や司法機関は機能を事実上停止しました。
紅衛兵がどれほど暴力を振るっても逮捕されず、処罰もされませんでした。
むしろ公安関係者自身が批判の対象となり、紅衛兵の行動を制止できない状況に追い込まれていました。
法の支配が完全に崩壊した状態では、暴力をエスカレートさせることへの外的な抑止力が存在しなかったのです。
■文革期のコーヒー文化
文革当時、コーヒーもまた「四旧」や「资产阶级腐朽情调」(ブルジョワの退廃)と結びつけられました。
コーヒーは「西洋的」「ブルジョア的」な嗜好品とみなされ、革命的な価値観と相容れないものとして敬遠されました。
文革期には西洋文化全般が批判の対象となり、コーヒーを飲む習慣もその一部として否定的に扱われました。
コーヒーを飲んでいるだけで「黒五類」(「革命の敵」とみなされた5つの社会階層(地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派)の総称)の疑いをかけられる恐れがありました。
かつて租界地などがありコーヒー文化が根付いていた上海や広州などの都市でも、多くのカフェが閉鎖されるか、大衆的な食堂へと姿を変えました。
「チェス(Chess)」や「ルネサンス」といった西洋風の店名は強制的に「反帝(反帝国主義)」「紅衛」「工農兵」といった政治的な名前に変えられました。
コーヒーミルやカップを所有しているだけで「反革命的」と疑われる恐れがあったため、多くの家庭で器具が廃棄されたり、隠されたりしました。
やシャンデリア、革張りのソファなどは「資本主義の毒」として壊され、壁には大字報(壁新聞)が貼られ、簡素な木の椅子とテーブルだけの「大衆食堂」へと変えられました。
1950年代に設立された「上海珈琲廠」は、文革中も細々と生産を続けていました。
特に有名なのが「レトロな紅い缶(上海牌珈琲)」です。
文革時代の上海では、この「上海牌」のコーヒーを、布の袋に入れて鍋で煮出したり、あるいは単にコップに入れてお湯を注いで(沈殿するのを待って)飲んだりしていたそうです。
現代のようなドリッパーやサイフォンを持つ家庭は極めて稀なうえに持っていても黒五類の疑いをかけられる恐れがあったため、布の袋(ガーゼなど)に入れて鍋で煮出したり、コップに直接粉を入れてお湯を注ぎ、粉が沈殿するのを待って上澄みを飲むという、非常に原始的な方法で飲まれていました。
作家の木心(ムー・シン)は散文『上海赋』の中で、上海牌咖啡の全身のC.P.C.のコーヒーを懐かしみ、「挽きたて淹れたて、華やかな灯がともる夕暮れから翌朝3時まで」と回想しています。
木心にとってコーヒーは、1920〜40年代の上海が持っていた国際都市としての洗練と自由の象徴でした。
『上海赋』は、かつての上海の食、衣服、風俗を細密に描いた作品ですが、その中でコーヒーに触れるのは、単に飲み物の記憶ではなく、一つの文明の記憶としてです。
木心自身は文革中に投獄され、原稿を没収されるなど過酷な体験をしています。
1982年に渡米し、ニューヨークで『上海赋』を書きました。つまり彼がC.P.C.のコーヒーを回想したのは、太平洋の向こう側から、もはや戻れない時代を振り返る行為でした。
「風中の残燭のような記憶」だけを頼りに書いたと本人も述べています。
コーヒーの味や香りそのものよりも、それを飲んでいた時代の空気全体への郷愁が込められていたのだと思います。
程乃珊(チョン・ナイシャン)は上海の名門家庭に生まれた作家で、旧上海の上流社会の生活を描く作品で知られています。
彼女は上海牌咖啡(国営化後の姿)について、「紅旗の下に残った、数少ないプチブル的風景の一つ」と表現しました。
この一言は非常に多くのことを語っています。
「紅旗の下」とは共産党政権下ということであり、「小資(プチブル)」とは本来批判されるべき階級的属性です。
上海牌の紅い缶は、当時の上海の家庭における「最高のステータス」として登場します。
彼女は、上海の主婦たちがどのようにして貴重なコーヒー粉を節約し、客人に振る舞ったかというディテールを愛情込めて書き残しました。
程乃珊は、当時の上海牌に大豆や麦が混ざっていたことを隠さず描いています。
しかし、彼女はそれを「偽物」と切り捨てるのではなく、「それでもコーヒーを飲みたかった上海人の健気なプライド」として肯定的に捉えていました。
彼女にとって上海牌咖啡の香りは、文革という殺風景な時代における、唯一の「色のついた記憶」でした。
彼女の文章からは、不自由な時代でも「上海らしさ」を捨てなかった市民への連帯感が伝わってきます。
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