1999年にソウルでスターバックス1号店が開店しました。
この韓国でのスターバックス事業を推進したのが新世界グループの現会長鄭溶鎮(チョン・ヨンジン)氏です。
鄭溶鎮氏米国ブラウン大学への留学時代にスターバックスを経験した鄭副会長が、韓国への導入を積極的に推進しました。
1990年代初頭、鄭副会長は米国ロードアイランド州にあるブラウン大学(Brown University)で経済学を専攻し、留学生活を送っていました。
当時、現地の大学生の間で爆発的な人気を集めていたのがスターバックスでした。鄭副会長はキャンパス近くの店舗で、学生たちが列を作ってコーヒーを買い、店内で自由に勉強したり会話を楽しんだりする「サードプレイス(第3の空間)」としての文化に深い感銘を受けました。
彼は単にコーヒーの味に魅了されただけでなく、「このような文化が韓国に入れば、若者を中心に凄まじい変化が起きるだろう」と確信しました。当時の韓国は「タバン(茶房)」やインスタントコーヒーが主流であり、エスプレッソベースのテイクアウトコーヒーは非常に斬新な概念でした。
彼は1990年代初頭の新世界グループの創業家出身の帰国子女であり、オレンジ族と同世代であり、斬新な感覚をもっていました。
1995年に 新世界グループに入社した新世界 戦略企画室 戦略チームに配属されました。
この頃から本格的にブランド導入を推進し始めたと考えられます。
1997年彼は企画調整室 常務に昇進し、新世界は米国スターバックス・コーヒー・インターナショナル(SCI)とライセンス契約を締結し、公式なパートナーシップをスタートさせました。
1998年2月に新世界とスターバックスの副社長が合弁投資方式でのブランド運営に合意しました。
そして1999年7月にソウルの梨花女子大学前に1号店をオープンしました。
当時、梨花女子大学(梨大)の前は、韓国でトレンドに最も敏感な20代女性が集まる核心的な商圏でした。スターバックス本社と新世界グループは、新しいコーヒー文化(エスプレッソ、テイクアウト)を最も早く受け入れ、拡散させるコアターゲットを「女子大生および近隣の働く女性」に設定しました。
また当時の韓国の「タバン(茶房)」やカフェは、座って休む空間という概念が強い場所でした。しかし、スターバックスは、路上でコーヒーを持ち歩きながら飲む「テイクアウト」文化を定着させる必要がありました。梨大前は登下校する学生の流動人口が多く、歩きながらコーヒーを飲む姿を自然に露出させ、流行させるのに最適な場所でした。
これは狎鴎亭(アックジョン)ロデオ通りがすでに完成された富裕層の街だったのに対し、梨大前は「新しい流行が始まる場所」という象徴性がありました。「梨大前で流行れば全国に広がる」という当時の定説に従い、ブランドの新鮮さを強調し、口コミ(バイラル)効果を最大化しようとしました。
また、鄭溶鎮梨花の母でグループの李明熙(イ・ミョンヒ)会長が梨花女子大学出身で母校に愛着があったとの証言もあります。
当時の韓国では、飲食店で列を作って待つという文化はまだ一般的ではありませんでした。しかし、オープン当日は梨大前の狭い路地に、新しい流行をいち早く体験しようとする学生や若者で長蛇の列ができました。
「注文するのに30分、飲み物を受け取るのにさらに時間がかかる」という状況でしたが、その行列自体が「あそこに行けば何か新しいものがある」という強力な宣伝効果(バイラル)を生みました。
最も象徴的だったのは、スターバックスのロゴが入った紙コップを手に持ち、颯爽と歩く女子大生たちの姿でした。
当時のメディアは、この光景を「新しいファッションアイテム」として報じました。単なる飲み物ではなく、「洗練された都市文化を消費している」というステータスとして、テイクアウトのカップが機能していたのです。
当時の韓国には、今では当たり前の「キャラメルマキアート」や「フラペチーノ」、あるいは「トール、グランデ」といったサイズ概念がありません。
注文カウンターで複雑なメニューに戸惑うことも、若者たちにとっては「自分たちは新しい文化を学んでいる」という知的でエキサイティングな体験として楽しまれました。
当時の喫茶店(タバン)はタバコの煙が立ち込め、ソファに深く座り込む場所でしたが、スターバックスは「全面禁煙」と「ジャズが流れるモダンなインテリア」を提示しました。
オープン当日、鄭溶鎮常務も現場を訪れていました。彼は単に見守るだけでなく、お客様の反応を非常に細かくチェックしていたと言われています。
この1号店の爆発的な成功を見て、彼は「韓国のコーヒー市場は完全に変わる」という確信を深め、その後の積極的な店舗展開へとアクセルを踏むことになりました。
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