明治期の頃の喫茶店やレストランはコーヒー豆を、自分の店で焼く今でいう自家焙煎の店が多かったです。今と比較して、コーヒーを飲む習慣がなく、コーヒーを出す店も少なく、コーヒー豆に需要が無かったからです。
しかし、1911年頃から徐々にコーヒーを出す店を増えて来て、コーヒー豆の焙煎を代行する需要も増えてきました。
こうした中カフェ―パウリスタでも働いていたことのある柴田文次は
1920年(大正9年)、横浜市中区福富町でコーヒー商「木村商店」を創業しました。
当初は各国産コーヒー豆の焙煎加工卸や食料品販売を行い、後に「コーヒーシロップ」などの加工品がヒット商品になります。
1923年の関東大震災で店舗を焼失しますが、10日後には横浜市中区吉田町で再起し、焙煎機を整えて事業を再開しました。
1928年、商号を「木村コーヒー店」と改め、横浜市内に工場を設けてコーヒーの製造・販売を開始します。
この時に鍵のマークの「キー」ブランドが採用され、「コーヒーは日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ」という思想がロゴに込められました。
1929年には全面英語表記と鍵のマークが特徴的な「キー缶」が発売され、家庭でも本格的なコーヒーを楽しめるようになったと言われます。
昭和初期には東京・大阪・名古屋・博多などに次々と支店を開設し、台湾や沖縄で自社農園を運営するなど、原料調達から販売までを見据えた総合コーヒー産業化を進めました。
台湾の「台東珈琲農園」「嘉義珈琲農園」や沖縄の「慶佐次農園」でコーヒー栽培に取り組んだのも大きな特徴です。
しかし第2次世界大戦により、外地の支店や農園は接収され、横浜本店も空襲で焼失するなど、大きな打撃を受けました。
終戦後は本店機能を東京に移し、コーヒー豆の輸入を行う関連会社を設立するなどして事業を再構築します。
1950年代以降はアフリカ産「キリマンジャロ」や「ブルーマウンテン」などの輸入販売にいち早く取り組み、日本のコーヒー市場で高級豆ブームの先鞭をつけました。
幻のコーヒーの復活: インドネシアのトラジャ地方でかつて生産され、大戦の混乱で市場から消えていた高品質なコーヒーに着目。1970年代に現地政府と協力して道路や橋などのインフラから整備し、直営農園を開設しました。これが1978年に発売された**「トアルコ トラジャ」**です。単なる輸入販売だけでなく、生産地域開発から手掛けたこの事業は、コーヒー業界でも特筆すべき歴史的プロジェクトとして知られています。
インスタントコーヒー会社の設立や真空パックコーヒーの発売など、家庭用や業務用の両面で商品ラインを広げていきます。
会社としては「キーコーヒー株式会社」として総合コーヒーメーカーとなり、家庭用レギュラーコーヒー、業務用豆、カフェチェーン向けなど多角的に事業を展開しています。
2020年8月に創業100周年を迎え、「誰でも、簡単に、おいしく」という方針で、日本にコーヒーを根付かせてきた歴史を振り返る取り組みが行われました。
「KEY COFFEE」の「KEY」は、コーヒーが新しい食文化をひらく「鍵」であるというコンセプトから来ており、創業時から変わらないシンボルとして使われ続けています。
戦前から缶入りコーヒーやシロップ、家庭用のキー缶などを通じて、喫茶店だけでなく家庭でもコーヒーを飲む文化を広げた点が、他社に先行する同社の歴史的な役割と評価されています。
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