北朝鮮当局は1998年ごろから「苦難の行軍」に代えて「強行軍」や「強盛大国建設」といったスローガンを掲げ始め、2000年前後に苦難の行軍の終結を宣言したとされています。
北朝鮮の経済はチャンマダン市場の拡大によって、食糧が配給制度以外の経路でも流通するようになりました。
韓国と北朝鮮は、接近し経済協力をするようになりました。
こうした中、チャンマダンで韓国のインスタントコーヒーが北朝鮮でも飲まれるようになります。
北朝鮮におけるコーヒー文化の普及は、政府の経済政策だけでなく、開城工業団地の労働者とチャンマダンの商人によって進みました。
つまり、南北の政治関係が悪化しても、一度韓国製コーヒーのおいしさを知った北朝鮮の消費者の需要は消えなかったということです。
国際的な食糧支援
1995年の大洪水を機に、北朝鮮は異例にも国際社会へ支援を要請しました。
世界食糧計画(WFP)を中心に、アメリカ、中国、日本、韓国などから大量の食糧が送られました。
特に1998年に発足した韓国の金大中政権の「太陽政策」以降、南北間の支援が拡大しました。分配の透明性には問題がありましたが、それでも、子どもや妊婦など脆弱な人々の栄養状態を改善し、大規模な飢餓を緩和する重要な役割を果たしました。
FAO・WFPの報告によると、1997〜1998年の期間には、国際食糧援助が推定穀物不足量の約76%に相当しました。
チャンマダンの拡大
市場の拡大によって、食糧が配給制度以外の経路でも流通するようになりました。
研究者のステファン・ハガードとマーカス・ノーランドは、1990年代末から2000年代初頭には、一般家庭が食糧の大部分を市場から得るようになっていたと分析しています。
当局は当初これを取り締まりましたが、結局は黙認せざるを得ませんでした。2002年の「7・1経済管理改善措置」では市場活動が部分的に追認されています。国家に頼らず市場で食糧を得る仕組みが、飢饉からの回復を支えました。
農業生産の一定の回復と人口の減少
自然災害が続いた時期を過ぎて、収穫がいくらか持ち直しました。
また悲しいことですが、多数の死者(推計には幅があり、数十万人から百万人規模とする見方が多い)や脱北によって、食糧を必要とする人口そのものが減ったことも、需給を緩和させる結果になりました。
2000年代の北朝鮮と韓国の経済協力
1997年のアジア通貨危機によって韓国がIMF(国際通貨基金)に緊急支援を要請した直後に、韓国では金大中(キム・デジュン)が大統領に当選しました。
金大中が韓国の経済再建を進めながら、同時に北朝鮮との関係改善にも取り組みました。
1998年には太陽政策を始め、2000年には金正日との歴史的な南北首脳会談を実現しました。
当時の韓国は、かつての大韓航空機爆破事件や北朝鮮工作員によるテロ・拉致事件を知っていても、2000年当時、北朝鮮との関係改善を望む韓国人は非常に多かったです。
北朝鮮の「政権」と「住民」を分けて考える見方が強まりました。
1990年代の飢饉で北朝鮮の住民が餓死しているという報道は、韓国人に「同じ民族が飢えている」という同情を呼び起こし、太陽政策は韓国国民から大きな支持を得ました。
首脳会談直後の熱狂
2000年6月の南北首脳会談は、韓国国民に大きな衝撃と感動を与えました。
分断以来初めて南北の首脳が抱き合う映像がテレビで繰り返し流れ、世論調査でも会談を肯定的に評価する人が圧倒的多数を占めました。
8月には離散家族の相互訪問が実現し、同年9月のシドニー五輪では南北が開会式で合同入場するなど、統一が近づいたかのような雰囲気が社会に広がりました
開城工業団地の操業開始
特に2000〜2007年には、韓国企業が北朝鮮に工場を建設し、韓国人観光客が北朝鮮を訪れ、南北を結ぶ鉄道や道路の整備も進みました。
金正日政権は、韓国を政治・軍事的には敵対相手としながらも、経済面では協力して外貨や投資を受け入れていたのです。
2004年には開城工業団地が操業を開始しました。
韓国企業が北朝鮮に工場を建設し、北朝鮮の労働者を雇用し、衣料品、靴、電子部品などを製造しました。
2003年には約7億2,400万ドルだった南北交易額は、2008年には約18億2,000万ドルまで増加しました。約2.5倍です。
チャンマダンの発展
2000年代の北朝鮮のチャンマダン(장마당)は、日本の昔の露店市場や商店街に近い雰囲気で、食糧から中国製の家電、衣類、化粧品、さらには韓国製のインスタントコーヒーまで売られる場所でした。
しかも、1990年代の苦難の行軍のときのように、食べ物を確保するだけの闇市ではなく、2000年代には商売で利益を上げる人々が現れ、北朝鮮独自の市場経済が発達していきました。
2003年に北朝鮮政府が常設の総合市場を制度化すると、屋根付きの売り場や区画整理された市場も発達しました。
平壌の統一通り市場などでは、中国製テレビ、時計、衣類、食品といった商品も扱われていました。
チャンマダン世代の育った環境
チャンマダン世代」とは、おおむね1980年代後半から2000年代にかけて生まれ、「苦難の行軍」の最中かその後に育った北朝鮮の若い世代を指す言葉です。
名前は、彼らの生活の中心にあった市場(チャンマダン)に由来しています。
この世代の大きな特徴は、国家の配給制度がまともに機能していた時代をほとんど知らないことです。
親の世代は「国家が食べさせてくれる」社会主義体制を経験していましたが、チャンマダン世代は物心ついたころから、家族が市場で商売をして生計を立てる姿を見て育ちました。
生き延びるには国家ではなく自分の才覚とお金が頼りだ、という感覚が自然に身についています。
そのため、上の世代と比べて国家や指導者への忠誠心が相対的に薄く、より現実的・個人主義的で、お金や物質的な豊かさを重視する傾向があるとよく指摘されます。体制への公然とした反抗は危険なのでしませんが、建前と本音を使い分け、思想教育を形式的にこなしながら自分の生活を優先する、という姿勢です。
韓流文化の影響
中国から密輸されるUSBメモリ、SDカード、ポータブルメディアプレーヤー(ノテル)などを通じ、韓国のドラマ、映画、K-POP、中国のコンテンツなどを日常的に消費して育ちました。
外界の豊かさや自由な暮らしを知っているため、国家の宣伝・プロパガンダをそのまま信じることは稀です。
韓国ドラマの影響を受け、スキニージーンズや韓流風のヘアスタイル、韓国の若者言葉(恋人を「オッパ」と呼ぶなど)を好む文化が広まりました。
チャンマダンでの韓国製インスタントコーヒーの普及
2009年の米国の自由アジア放送(RFA)の報道によると、中国が韓国からのコーヒー輸入量を制限していたため、韓国の仁川港から旅客船で中国の丹東に運び、割当制度をすり抜けていたそうです。
そこから丹東と新義州を結ぶ中朝友誼橋を渡って北朝鮮に密輸されていました。
税関を通過させるために、業者は元の外装を外してスティックを別の容器に詰め替え、さらに北朝鮮の税関職員に賄賂を渡して見逃してもらっていたとされます。
こうして主に韓国のマキシム(Maxim)ブランドのスティックが、大都市の市場でひそかに売られていたということです。
開城工業団地からの流入
もう一つのルートが開城工業団地でした。
操業当時、韓国企業は北朝鮮の労働者に個包装のスティックコーヒーを支給しており、これが非常に人気で、チョコパイなどの韓国のお菓子と一緒に休憩室から持ち出され、地元の市場に出回ることが多かったといわれています。
チョコパイが有名ですが、コーヒーミックスも同じように流通していたわけです。
コーヒーは特権のエリート層の飲み物
ただし、コーヒーは一般庶民には高価な嗜好品でした。
2009年の報道では、飢えに苦しむ人が多い中で、特権層のエリートが韓国産インスタントコーヒーを愛飲していると伝えられ、ある脱北者はほとんどの北朝鮮の人はコーヒーを飲んだことがなく、よく知らないと語っています。
2024年の報道でも、コーヒーは一般の人には高価なため主に富裕層が飲み、一般の人々は密輸された外国映画を通じてコーヒー文化を知りつつあるとされています。
賄賂の品としても使われ、国産の高麗人参入りコーヒーもあるが、幹部はブラジル産や韓国産を好むという証言もあります。
北朝鮮の核実験
韓国の北朝鮮への経済協力には当初から批判もありました。
首脳会談の実現にあたり、現代グループを通じて数億ドル規模の資金が北朝鮮に秘密裏に送られていたことが後に発覚し、「対北送金事件」として大きな問題になりました。
また、支援した資金や物資が核・ミサイル開発に流用されたのではないかという疑念も根強くあります。
実際、北朝鮮は協力が進む中の2006年に初の核実験を行っています。
核兵器開発による国連の制裁
2006年7月、北朝鮮がテポドン2号を含む弾道ミサイルを発射すると、国連安保理は決議1695を採択し、ミサイル関連物資の移転を防ぐよう加盟国に求めました。
さらに同年10月9日に北朝鮮が初の核実験を行うと、5日後に決議1718が採択されます。
これは国連憲章第7章に基づく法的拘束力のある初の対北朝鮮制裁で、核・ミサイル関連物資や大型兵器の取引禁止、贅沢品の輸出禁止、関係者の資産凍結などが定められました。
その後は核実験やミサイル発射のたびに制裁が強化されていきます。
2009年の2回目の核実験後の決議1874、2013年の3回目の核実験後の決議2094などを経て、2016〜2017年には石炭・鉄鉱石・海産物・繊維製品といった主要輸出品の禁輸、北朝鮮労働者の海外派遣禁止、石油製品の供給上限の設定など、北朝鮮経済全体に打撃を与える内容に拡大しました。
2008年以降の経済協力の後退
2008年に発足した李明博政権は、核問題の進展を経済協力の条件とする方針に転換しました。
同年7月、金剛山で韓国人観光客が北朝鮮兵士に射殺される事件が起き、観光は中断されました。
2010年の韓国哨戒艦「天安」沈没事件を受けて、韓国政府は開城工業団地を除く南北交流をほぼ全面的に停止する「5・24措置」を発表します。
最後まで残った開城工業団地も、北朝鮮の核実験やミサイル発射を受けて2016年に閉鎖され、2000年代の経済協力の枠組みはほぼ姿を消しました。
太陽政策が北朝鮮社会を開放に導いたのか、それとも体制を延命させただけなのかについては、今も韓国国内で評価が大きく分かれています。
南北関係が悪化した後も韓国製インスタントコーヒーは人気
南北関係が悪化しても韓国製コーヒーの人気は衰えず、中国を経由した密輸などによって供給が続いていたました。
2016年の開城工業団地閉鎖後も韓国製コーヒーミックスがチャンマダンで取引されていたと言われています。
当時、韓国製のマキシムなどのコーヒーが中国の丹東を経由し、新義州から北朝鮮に持ち込まれていました。
韓国製であることを隠すため、包装を変更したり税関職員に賄賂を渡したりした事例も報告されています。
2019年にも、韓国製の商品を中国朝鮮族の工場で製造したものだと説明して税関を通過させる手口が報告されています。
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