1980年代後半に、共産主義諸国の体制転換が相次ぎ、アメリカとソ連を中心とした東西冷戦が終結すると、それまで東側共産主義諸国からの支援を受けていた北朝鮮の経済は混乱し、食糧危機を迎えます。
北朝鮮では段階的に共産主義の配給制度を停止していき、飢餓が北朝鮮国民を襲います。
金正日の北朝鮮当局は、「苦難の行軍」というスローガンを掲げ、「中央に頼るな、自力更生で労働者の食糧を自力確保せよ」と地方の幹部や企業に丸投げしました。
国民は生き延びるためにチャンマダン(市場)での商売を始めました。
チャンマダン経済は急拡大していきます。
コーヒーもチャンマダンで高級品として登場します。
ソ連崩壊
1985年に登場したゴルバチョフの改革です。彼はペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)を進めるとともに、東欧諸国の内政には軍事介入しないという姿勢を示しました(かつての「ブレジネフ・ドクトリン」の放棄で、俗に「シナトラ・ドクトリン」とも呼ばれます)。
1956年のハンガリー動乱や1968年のプラハの春のようにソ連軍が鎮圧に来ないとわかったことで、東欧各国で民主化運動が一気に広がりました。1989年11月のベルリンの壁崩壊は、その流れの象徴的な出来事でした。
そのうえで、壁の崩壊はソ連の解体にいくつかの形で影響を与えました。
まず、東欧の社会主義政権が1989年中にドミノ倒しのように崩れ、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。
1990年10月には東西ドイツが統一されたことで、ソ連は安全保障上の緩衝地帯と、超大国としての威信を失いました。
第二次世界大戦以降、ソ連が莫大な犠牲とコストを払って築いた「西側に対する防壁(東欧衛星国)」が一夜にして崩れ去りました。
壁崩壊直後の1989年12月、マルタ会談でゴルバチョフと米大統領ブッシュ(父)が「冷戦の終結」を公式に宣言しました。
北朝鮮と旧共産圏側との関係も変わる
冷戦終結後、北朝鮮とソ連との取引の条件が根本から変わりました。
冷戦期のソ連は北朝鮮に対し、国際価格よりかなり安い「友好価格」で石油などを供給し、支払いも物々交換(バーター)や清算勘定で済ませていました。
しかし1990年前後からソ連は経済改革の一環として、社会主義国との貿易も国際価格・ハードカレンシー(ドルなど)での決済に切り替える方針を打ち出し、1991年のソ連崩壊後にロシアがこれを引き継ぎました。
北朝鮮には外貨がほとんどなかったため、事実上「買えなくなった」のです。
その結果、ソ連・ロシアとの貿易額は短期間で激減しました。
またロシア自身が深刻な経済混乱に陥っていたことがあります。
1990年代初めのロシアはハイパーインフレや生産の急落に苦しんでおり、採算の合わない対外援助を続ける余裕はありませんでした。
東欧の旧社会主義国も同様に市場経済へ移行し、北朝鮮との優遇的な貿易関係は失われました。
ソ連は1990年に韓国と国交を樹立し、北朝鮮はこれを裏切りと受け止めました。
イデオロギー上の連帯を理由に北朝鮮を支える動機は薄れていきました。
また、もう一つの大きな後ろ盾だった中国も1992年に韓国と国交を結び、その前後から北朝鮮との貿易を現金決済に移す動きを見せたため(ただし中国はその後も一定の援助を続けました)、北朝鮮は二つの支えをほぼ同時に弱めることになりました。
北朝鮮の農業は輸入資源に強く依存していました。
化学肥料の生産には石油や石炭が必要で、灌漑ポンプは電力で動き、トラクターや輸送には燃料が欠かせません。
段階的に配給を停止
工業生産や農業が悪化し、配給量も減り始めます。
ソ連崩壊の直前、国営メディアを通じて「健康のため、労働規律のために1日2食にしよう」というスローガンが突如打ち出されました。
これは国家が「1日3食分の穀物を確保できなくなった」事実上の敗北宣言でした。
1991年のソ連崩壊により、石油・化学肥料の供給が途絶し、農業生産高が急落しました。
中央政府は限られた食糧を分配するにあたり、「体制維持に直接必要な地域・階層」を優先し、地方や重工業都市を意図的に切り捨てる判断を下しました。
1992から1993年最初に停止したのは穀倉地帯から遠く、農業ができない北東部の鉱山・重工業地帯(咸鏡北道・両江道・慈江道など)でした。
1993から1994年になると地方の中小都市、内陸部の炭鉱町、一般地方農村での配給を停止にしました。
毎月2回(1日と15日)の配給日が1回になり、数か月遅れが常態化しました。
中身も白米の比率が激減し、質の悪い未脱穀のトウモロコシや雑穀ばかりになりました。
そして、最後まで維持されたのは平壌市民、朝鮮労働党幹部、軍人、国家保衛省(秘密警察)など治安維持機関です。
1994年の金日成死去後、権力を引き継いだ金正日は体制防衛のため「先軍政治」へ舵を切りました。
国家が徴発できたわずかな穀物はすべて「軍糧米(軍隊用の食糧)」として軍の倉庫に直行し、PDSへの供給は完全にゼロとなりました。
苦難の行軍
7〜8月に大規模な洪水が発生し、農地・収穫・交通網が大きな打撃を受けました。
水力発電所と炭鉱が水没して大停電が発生し、電気機関車が走れなくなって鉄道網が完全に麻痺しました。
これにより、地方へ食糧を運ぶ物理的手段そのものが消滅しました。
このころ北朝鮮は国際社会に緊急食糧援助を求め始め、本格的な飢饉状態が明確になります。
1995年秋以降、平壌の中枢機関や軍関係者などごく一部の特権層を除き、北朝鮮全土で一般国民向け配給は公式・非公式を問わず実質「ゼロ」になりました。
1996年1月の『労働新聞』などの新年共同社説で「苦難の行軍」というスローガンが呼びかけられました。
もともとは、1938年から1939年にかけて金日成率いる抗日パルチザンが厳しい冬に満州で行ったとされる行軍を指す言葉で、国民に困難を耐え抜くよう呼びかけるために再び用いられました。
当局は地方の党幹部や企業所に対し、「中央に頼るな、自力更生で労働者の食糧を自力確保せよ」と丸投げしました。
これは国家が国民への生存給付義務を正式に放棄した瞬間でした。
かつては命そのものだった国家発行の配給手帳や配給切符は無価値となり、人々は生存のため、法律上禁止されていた「ヤミ市(ジャンマダン)」での物々交換や売買に走らざるを得なくなりました。
金正日本人は、飢餓とはほぼ無縁だった
金正日は国家最高指導者だったため、一般の配給制度に依存して生活していたわけではありません。
最高指導部には独自の供給網があり、食料・生活物資を確保できる立場にありました。
金正日の料理人だった藤本健二は、食糧不足が深刻化した1994年以降も、金正日の食卓には世界各地の高級食材が並んでいたと証言しています。
藤本によれば、金正日の邸宅には世界各地の酒を集めた巨大な酒蔵があり、Hennessy XOやJohnnie Walkerなどが保管されていました。
Washington Postも、藤本がデンマークから豚肉、イランやウズベキスタンからキャビア、日本の築地から魚介類を買い付けたという証言を紹介しています
北朝鮮には通常の国家予算・人民経済とは別に、党や最高指導部が管理する外貨獲得企業・貿易会社・銀行がありました。
後年特に有名になるのが朝鮮労働党39号室(Office 39)です。
北朝鮮の高級品調達では中国の仲介業者や第三国企業、迂回輸送などが利用されていたことを多数確認されています。
1997年に地方住民がトウモロコシすら確保できない時期でも、金正日の食卓には日本産の魚介、キャビア、外国産肉類、高級酒などを並べることが可能でした。
チャンマダン(市場)」経済の拡大
「苦難の行軍」で、多くの北朝鮮住民は国家配給だけでは生きられなくなり、自分たちで食料を作る・集める・交換する方法を急速に発達させました。この過程は、その後の北朝鮮社会を大きく変え、闇市場・農民市場から後の「チャンマダン(市場)」経済が拡大する重要な契機にもなりました。
北朝鮮には1950年代から「農民市場」が存在していました。
協同農場の農民が自宅の小さな庭先畑(個人副業)で作った野菜や、飼育した家畜などの余剰分を売ることが認められていたのです。
当初は10日に一度程度開かれる定期市で、売ってよい品目も限られ、穀物の売買は禁止されていました。
社会主義体制のもとでも、配給で足りない部分を補う「隙間」として黙認されていたわけです。
1990年代に入って配給が滞ると、この小さな市場が一気に膨らみました。
禁止されていた穀物が公然と売られるようになり、開催も毎日になり、工業製品や中国からの輸入品まで並ぶようになります。
場所も指定された市場の敷地にとどまらず、駅前や路地、川原などにも露店が広がりました。これが「チャンマダン」と呼ばれる市場です。
最初に商売を始めた人々は既婚女性です。
北朝鮮では、男性は職場に所属する義務がある一方、家庭の主婦は「扶養家族」として職場に縛られないことが多く、比較的自由に動けました。
家財道具を売ることから始め、やがて豆腐やパン、餅などの食品を作って売ったり、地域間で物資を運んで差額を稼いだりするようになりました。
に、農民です。協同農場から隠した穀物や、山の隠し畑で作った作物を売ることで、彼らは市場への重要な供給者になりました。
そして、外部とのつながりを持つ人々が早い段階から有利な立場にありました。
代表的なのが、北朝鮮に住む華僑(中国籍の住民)です。
彼らは中国への往来が比較的認められていたため、中国製の衣類や日用品を持ち込み、卸売商の役割を担いました。
国に親戚を持つ人々や、日本の親族から送金や物資を受け取っていた帰国者(在日朝鮮人の帰国者とその家族)も、元手や商品を確保しやすく、初期の商人層の一部になりました。
国境地帯では、密輸に携わる人々も現れました。
さらに、軍や党、行政機関の関係者も深く関わりました。
外貨稼ぎのために設けられた機関傘下の貿易会社は、中国との取引で得た物資を市場に流し、幹部たちは地位を利用して国家の物資を横流しすることもありました。
市場は、底辺の住民だけでなく、権力の側にいる人々の利益とも結びついていったのです。
チャンマダンを黙認した金正日
金正日自身は市場を好んでいませんでした。
社会主義の原則に反し、資本主義的な考え方や外部の情報が入り込む「非社会主義の温床」と見ていたとされます。それでも全面的に禁止しなかったのは、いくつかの理由が重なったためです。
第一に、国家が人々を食べさせられなかったからです。
配給を回復できない以上、市場を潰せば住民はさらに飢え、社会不安が一気に高まる恐れがありました。
市場は、国家が果たせなくなった役割を事実上肩代わりしていたのです。
第二に、取り締まる側も市場に依存していたからです。
末端の幹部や保安員(警察)も配給が滞る中で暮らしており、商人から賄賂を受け取ることで生活を成り立たせるようになりました。
上から禁止命令が出ても、現場では見逃しや取引が横行し、徹底した取り締まりは難しかったのです。
第三に、国家にとっても収入源になったからです。市場の場所代や税のような負担金は地方財政を支え、外貨稼ぎの貿易会社の活動は体制の資金源にもなりました。
チャンマダンでのコーヒーは高級品
1990年代のチャンマダンでは、コーヒーは一般庶民の日常飲料というより、非常に高価な舶来品・ぜいたく品でした。
日本からの帰国者家庭や海外とのつながりがある世帯には、インスタントコーヒーが仕送り品として入ることがあり、それを自分で飲むより、現金化するため市場で売ったり、幹部への贈答・賄賂に使ったりするケースがありました。
1990年代には市場そのものが急速に拡大し、食料だけでなくさまざまな輸入品・生活物資が取引されるようになっています。
1996〜98年ごろの日本製インスタントコーヒー100g瓶なら、米でおよそ10〜25kg、トウモロコシなら30〜50kg程度と交換できた可能性があります。
1990年代後半の脱北者証言には、かなり具体的な市場価格があります。
国境地域などでは、米は通常、
- 60〜80ウォン/kg
- 1996年秋の危機ピークには150ウォン/kgに達したケース
が報告されています。
トウモロコシは、
- 35〜45ウォン/kg
程度という証言があります。
1996年の日本では、100g入りインスタントコーヒーはおよそ795〜809円でした。
1996年の為替はおおむね1ドル=105〜114円程度でした。したがって800円のコーヒーなら、
約7ドル前後の価値です。
7ドル × 220〜280ウォン ≒ 1,500〜2,000ウォンです。
一方、北朝鮮の闇為替では、1996年秋〜1997年ごろ、1ドル=220〜280北朝鮮ウォン程度までウォンが下落していました。
そこで単純に換算すると、
7ドル × 220〜280ウォン ≒ 1,500〜2,000ウォン
です。
米が通常の飢饉期価格、
80ウォン/kg
だったとすると、
1,500〜2,000ウォン ÷ 80 ≒ 19〜25kg
です。
米が特に高騰した1996年秋の
150ウォン/kg
なら、
1,500〜2,000 ÷ 150
≈ 10〜13kg
となります。
したがって、100g瓶1本について、米:約10〜25kgという範囲は、それほど不自然ではありません。
トウモロコシの場合は当時の証言にある35〜45ウォン/kgを使うと、
1,500〜2,000 ÷ 35〜45
なので、おおむね
トウモロコシ:約35〜55kg
になります。
現実の市場では値引き、地域差、品物の状態、コーヒーのブランド価値などがあるため、少し保守的に見るなら、100g瓶1本 ≒ トウモロコシ30〜50kg前後くらいに想定できるかと思います。
例えば成人1人が1日にトウモロコシ500g相当を食べると仮定すると、
30kg ÷ 0.5kg = 60日分
50kg ÷ 0.5kg = 100日分
です。
つまり計算上は、日本から送られてきた100gのインスタントコーヒー1瓶を売るだけで、一人分の主食を数か月確保できるほどの価値になり得たことになります。
また当時の月給と比較しても、1990年代半ばの一般労働者の公式賃金は月100ウォン前後と言われています。
先ほどの100gコーヒー瓶の推定市場価値が仮に1,500ウォンなら、
月給100ウォン × 15か月分
にもなります。
これはかなり極端ですが、苦難の行軍期には公式給与と市場価格との関係が完全に壊れていたためです。
研究でも、1996年には賃金で購入できる米の量が1992年と比べて劇的に低下したことが指摘されています。
ただし、これは「日本でのコーヒー価格を当時の闇為替でウォン換算する」という方法を使った推定なので、直接のチャンマダン価格ではありません。
実際には、日本製の未開封ネスカフェには「外国製」「希少品」「幹部への贈答品」というプレミアムが付く一方、すぐ食料に換えたい売り手なら安く売ることもあったはずで、かなり幅があります。
それでも、帰国者家庭に日本の親族からインスタントコーヒーが送られてきた場合、「自分で飲む」より「売って数十kgの穀物に換える」方が、1996〜98年には圧倒的に合理的だった可能性が高いです。
コメント