北朝鮮拉致被害者とコーヒー

By Cafesba , 26 9月, 2026
日本人拉致被害者

金正日は1976年に対南工作の新しい方針を示し、工作員の現地化を徹底するよう指示したと言われています。

現地化とは、単に外国語を話せるようになることではありません。

工作員が日本人や韓国人などの身分を使い、その国の社会に溶け込めるようにすることです。

例えば日本人に偽装する工作員は、日本語の自然な発音や会話、日本人の日常生活や習慣についての知識、日本人としての経歴や身分に関する知識、日本人として外国を旅行する際の振る舞いが求められました。

そこで日本人を拉致して、工作員の日本語教育や身分偽装に利用し、日本や韓国などでの秘密工作に役立てようとしました。

そして1977年から1983年にかけて、日本国内や欧州で、日本人を対象とする拉致が相次ぎました。

拉致被害者のうち、米国の脱走兵と結婚した曽我ひとみさんの家庭ではコーヒーを飲んでいました。


日本人の拉致被害

日本政府が認定している拉致事案は12件、被害者は17人です。

北朝鮮はこのうち13人の拉致を公式に認め、5人は日本に帰国しましたが、残る12人については「8人は死亡、4人は北朝鮮に入っていない」と主張しています。

被害者は海岸で連れ去られた若いカップルや、下校途中だった当時13歳の横田めぐみさん(1977年、新潟)など、ごく普通の市民でした。工作員に日本語や日本の習慣を教える役目や、工作員が日本人になりすますための身分を得る目的があったとされています。

また、政府認定の17人以外にも、拉致の可能性が排除できない「特定失踪者」が多数いるとされ、実際の被害者はもっと多いと考えられています。

1974年には、日本国内にいた朝鮮籍の幼い姉弟2人が拉致された事件もあります。

- 横田めぐみさん(当時13歳)

1977年11月15日、新潟市で中学校から帰宅する途中に拉致されました。

北朝鮮側は後に、工作員が自分たちの存在を知られることを恐れて連れ去ったと説明しています。

ただし、これは北朝鮮側の説明であり、事件の全容が明らかになったわけではありません。

同年には久米裕さん、松本京子さんも失踪しています。

1978年には男女の拉致が集中し、

- 地村保志さん・濱本富貴恵さん(福井県)、

- 蓮池薫さん・奥土祐木子さん(新潟県)

- 市川修一さん・増元るみ子さん(鹿児島県)

- 曽我ひとみさん・曽我ミヨシさん(新潟県)

地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、曽我ひとみさんは2002年に帰国しました。

1980年には日本人への成りすましを目的とした拉致が発生しました。

- 原敕晁さん(当時43歳) 大阪府在住の原さんは、1980年6月、宮崎県の青島海岸から北朝鮮へ拉致されました。

北朝鮮工作員の辛光洙(シン・グァンス)は、原さんの身分を利用して日本の旅券を不正取得し、海外で対韓国工作などを行いました。

1983年はヨーロッパでも日本人拉致が発生しました。

- 有本恵子さん(当時23歳)

英国に留学していた有本さんは、1983年にヨーロッパで拉致されました。


辛光洙(シン・グァンス)事件

北朝鮮の工作員・辛光洙(シン・グァンス)は、拉致した原敕晁(はら・ただあき)さんを、その身分を奪って日本人になりすまし、韓国などで工作活動を行いました。

原敕晁さんは当時43歳で、大阪府に住んでいました。飲食店で働いていた男性です。

辛光洙らは北朝鮮からの指示を受け、日本人の原さんを拉致する計画を実行しました。

大阪府に住んでいた原さんを宮崎県の青島海岸へ連れ出しました。

青島海岸から原さんを工作船に乗せ、北朝鮮へ連れ去りました。

辛光洙は原さんに成り代わり、日本の旅券を不正取得しました。

その旅券を利用して複数回海外へ渡航し、北朝鮮の海外工作拠点の設置や対韓国工作などを行いました。

日本の警察は、辛光洙を拉致の主犯、金吉旭(キム・ギルウク)を共犯者として特定しています。

辛光洙事件の特徴は、「背乗り(はいのり)」と呼ばれる工作手法です。

背乗りとは、実在する別人の身分を奪ったり利用したりして、その人物になりすますことです。

当時の日本の旅券を持つことによって、日本人として外国へ入国し、工作活動を行えるようになったわけです。

1985年、韓国当局は辛光洙ら北朝鮮工作員を検挙しました。

同年6月、韓国当局が事件を公表したことによって、原さんの拉致と日本人への成りすまし工作が発覚しました。

日本の警察も担当官を韓国へ派遣し、韓国当局から供述書などを入手して、日本国内で裏付け捜査を進めました。

の結果、1988年には、日本の警察がこの事件を北朝鮮による日本人拉致事件と判断し、国会でも明らかにしています。


大韓航空機爆破事件(KAL858便爆破事件)

1987年11月29日、大韓航空858便がミャンマー(当時ビルマ)沖のアンダマン海上空で爆発・墜落し、乗客104人・乗員11人の計115人全員が死亡した事件です。

858便は、バグダッド → アブダビ → バンコク → ソウルいう路線のボーイング707でした。

韓国側の捜査と、後に生き残った工作員金賢姫(キム・ヒョンヒ)の供述によると、金賢姫と男性工作員の金勝一(キム・スンイル)は、日本人の父娘を装って偽造日本旅券を使用し、バグダッドから858便に乗り込みました。

2人は、時限爆弾を仕込んだ日本製ラジオと、液体爆薬を隠した酒瓶を座席上の荷物棚に置きました。

爆発まで約9時間に設定し、最初の経由地アブダビで自分たちだけ降機しました。

その後、858便はバンコクへ向かう途中、アンダマン海上空で爆発しました。

韓国政府が国連に提出した資料にも、この一連の手順が詳細に記録されています。

2人はアブダビから逃走し、最終的にバーレーンへ入りました。

しかし、使用していた日本旅券に疑いを持たれ、当局に拘束されます。

拘束時、2人は青酸化合物を仕込んだタバコを使って自殺を図りました。

金勝一は死亡しましたが、金賢姫は一命を取り留めました。その後、韓国へ移送されます。

金賢姫は当初、北朝鮮工作員であることを否定していましたが、1988年1月に記者会見を開き、自分が北朝鮮の工作員であり、858便に爆弾を置いたことを認めました。

金賢姫の供述と韓国政府の捜査によれば、この作戦は当時、金日成の後継者として権力を強めていた金正日の指示によるものでした。

韓国政府が国連に提出した資料では、1987年10月7日に工作員へ指令が伝えられ、その目的は、韓国で開催される1988年ソウル五輪への外国の参加を妨害することだったとされています。

国際社会に「韓国は危険な国だ」という印象を与え、各国選手団の参加を取りやめさせようとした、という説明です。

さらに事件当時、韓国では1987年12月16日の大統領選挙を目前に控えていました。

したがって、韓国社会を混乱させ、政治的不安を拡大させる意図もあったと考えられています。

金賢姫は韓国当局に対して、北朝鮮で李恩恵(リ・ウネ)と名乗る日本人女性から日本語や日本の生活習慣を教わったと証言証言します。

その女性こそ、田口八重子さんだったのです。

1978年当時は田口八重子さんは東京都豊島区に住み、飲食店で働いていました。

田口さんには幼い2人の子どもがいました。

1978年に失踪したとき、子どもたちはまだ母親を必要とする年齢でした。

田口さんは自分の意思で家族を捨てたわけではなく、北朝鮮によって日本での生活を奪われたと日本政府は認定しています。


曽我ひとみさんの拉致の経緯と結婚

曽我ひとみさんは、母親のミヨシさんと買い物から帰る途中、背後から突然襲われ、口をふさがれて拉致されたと証言しています。

1978年8月12日の夕方、ひとみさんと母親のミヨシさんは近所の商店で買い物を済ませ、自宅へ向かって歩いていました。

途中で、後ろから男性3人がついてきていることに気づきます。

距離が徐々に縮まってきたため、母娘は振り返り、不気味に感じていました。しかし、その時点では襲われるとは考えていなかったようです。

自宅まで100メートルを切ったところで、突然3人の男性が駆け寄ってきました。

男3人が母娘に襲いかかり、口をふさいで声を出せないようにしました。

手足を縛って抵抗できないようにして、南京袋のようなものをかぶせ、身体を担いで川まで運ばれました。

川まで運ばれたひとみさんは、現場で男女が会話しているのを聞きました。

女性は日本語を話していましたが、その日本語には少し違和感があったそうです。

翌13日午後5時ごろ、船が港に到着しました。

ひとみさんは、そこで日本語を話す女性から初めて、自分が連れてこられた場所は北朝鮮だと告げられたと証言しています。

この事件の大きな特徴は、母娘が一緒に拉致されたにもかかわらず、その後引き離され、ひとみさんは長年にわたって母親の消息を知らないまま北朝鮮で生活したことです。

北朝鮮は2002年にひとみさんの拉致を認めましたが、母親については北朝鮮に入国した事実はないと主張しました。

一方、日本政府はこの説明を受け入れていません。

日本政府の公表資料によれば、女性工作員はひとみさんに対し、母親について「ミヨシさんは佐渡に返した」と述べたとされています。

しかし、ミヨシさんが実際に佐渡に戻ったことを裏付ける証拠は確認されていません。

このことから、日本政府は少なくとも実行犯が母親の消息を知っていたはずだと指摘しています。

拉致されたひとみさんは、北朝鮮の特殊機関が管理する招待所で生活することになりました。

北朝鮮が2002年に日本政府へ説明した内容によると、ひとみさんは拉致後の約2年間、招待所で語学を学び、北朝鮮の生活環境に慣れるための教育を受けたとされています。

そして1980年8月8日、元アメリカ陸軍兵士のチャールズ・ジェンキンス氏と結婚しました。

ジェンキンス氏は、1965年1月に韓国での軍務中に脱走し、北朝鮮へ渡った人物です。


北朝鮮は国内にいる外国人と結婚させるために外国人女性を拉致

ジェンキンスの北朝鮮での主な「仕事」は、英語教師と、宣伝映画の俳優でした。

ただし、自分で職業を選んで就職したというより、北朝鮮当局から命じられた仕事です。

特に重要なのが英語教師です。

ジェンキンスは1981年から1985年ごろまで、平壌の軍事外国語大学(Military Foreign Language University)で北朝鮮軍人に英語を教えていました。

米陸軍の資料によると、生徒の多くは将校候補で、一部は外国で活動する工作員になることを想定して英語を学んでいました。

曽我ひとみさんと出会ったのも「英語」がきっかけです。

1980年、北朝鮮当局が曽我さんをジェンキンスの家に連れてきて、「この女性に英語を教えろ」と指示しました。

その約38日後に二人は結婚しています。

当時、北朝鮮にいた元アメリカ軍兵士としてよく知られているのはジェンキンスを含む4人のアメリカ人男性ですが、北朝鮮当局は、彼らを北朝鮮女性ではなく、さまざまな外国人女性と組み合わせています。

ジェームス・ドレスの句はルーマニアのドイナ・ブンベアと、ジェリー・パリッシュはレバノンのシハム・シュライテと、ラリー・アブシャーはタイ人女性アノチャ・パンジョイと結婚しました。

この組み合わせは偶然とは考えにくく、TIMEの取材では、北朝鮮当局が1970年代後半に米国人脱走兵を外国人女性と結婚させる方針を取ったとジェンキンスが証言しています。

北朝鮮には建国以来、朝鮮民族を非常に強く強調する民族主義があります。

国連調査委員会は、北朝鮮社会では「pure Korean race(純粋な朝鮮民族)」という考え方が重要な位置を占め、混血児の誕生を防ぐための強い措置が取られてきたと指摘しています。

そして国連報告書は、外国人女性が拉致された理由の一つとして、外国人男性と結婚させ、民族的朝鮮人との異人種間結婚を防ぐためだったと明記しています。


世界中で北朝鮮関与の拉致の事例

1978年、レバノンでは若い女性4人が「日本企業で働ける」などと騙され、ベイルートから国外へ連れ出されて最終的に平壌へ送られました。

北朝鮮工作員が架空の求人を利用したとされています。

タイ人のアノチャ・パンジョイはタイ国内ではなく、働いていたマカオで1978年に失踪しました。

国連資料も、北朝鮮に拉致された事例として取り上げています。

後に米軍脱走兵ラリー・アブシャーと結婚しました。

ルーマニア人のドイナ・ブンベア:ルーマニア国内ではなく、イタリアで生活していた1978年ごろに、日本での美術関係の仕事・展覧会などを持ちかけられて北朝鮮へ連れて行かれたとされています。

その後、米軍脱走兵ジェームズ・ドレスノクと結婚しました。

韓国では海岸から高校生らが拉致され、マカオではタイ人女性アノチャ・パンジョイや中国人女性、香港では韓国の有名女優・崔銀姫、映画監督申相玉さらにマレーシア、シンガポール、ルーマニアなどの女性についても北朝鮮関与の疑いが出ています。

映画女優の崔銀姫と映画監督の申相玉は、北朝鮮映画産業を発展させるという金正日の個人的・国家的プロジェクトのために連れてこられたとされています。つまり拉致は用途別に複数のプロジェクトが走っていたと考える方がよいでしょう。


元米兵と曽我ひとみさんの家庭ではコーヒーを飲む習慣があった

2002年10月、曽我さんが24年ぶりに日本へ一時帰国した直後、北朝鮮での生活について、「北朝鮮では朝食をパンとコーヒーで取る」と話したことが報じられています。

つまり、少なくとも2002年頃の曽我ひとみさん一家では、コーヒーが朝食の習慣になっていたと考えてよいでしょう。

曽我さんの場合は少し特殊です。1980年に、1965年から北朝鮮にいた元米兵チャールズ・ジェンキンスと結婚しており、北朝鮮政府の資料でも、夫妻は「国家から生活条件を保障されて暮らしている」とされています。

したがって、一般の北朝鮮住民よりも外国食品や嗜好品を入手しやすい立場だった可能性があります。

朝6時ごろ起きて娘たちの弁当を作り、夫とパンとコーヒーの朝食をとるという、かなり「専業主婦」に近い生活をしていたとされています。

またジェームズ・ドレスノクが2002年に曽我ひとみさんが日本へ帰国してから、2004年にジェンキンスが北朝鮮を離れるまでの生活について、彼は「妻がいなくなってから、ドレスノクは毎日私の家に来ていた。私たちはコーヒーを飲みながら話をした」

タグ

コメント