1960年代の対韓国への工作失敗後に台頭した金正日は北朝鮮では数少ないコーヒー愛好家

By Cafesba , 20 9月, 2026
金正日の特別列車

1960年代、北朝鮮は千里馬運動で国内の建設を進めると同時に韓国政府を倒し、朝鮮半島の統一を進めようとします。

その一環として、韓国国内に地下革命組織を作り、労働者、農民、青年学生による革命を起こし、北朝鮮はこれを支援する計画を実行します。

しかし、その計画は韓国政府の妨害により失敗し、北朝鮮では、軍や情報機関のトップが失脚します。

この後に台頭し、軍や情報機関のトップを掌握したのが金日成の息子である金正日で、金日成の後継者となりました。

金正日は大変な美食家でまた紅茶よりもコーヒーを好みました。


 

1960年以降、北朝鮮が韓国に対外工作をするようになる

在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が開始した翌年、1960年韓国では、学生・市民による大規模デモが起こり、李承晩大統領が退陣しました。

これは「4・19革命」と呼ばれる韓国の革命です。

朝鮮戦争では、韓国政府を倒して朝鮮半島の統一をするという企てに失敗した金日成ですが、「北朝鮮軍が侵攻しなくても、韓国国民自身が政府を倒せるではないか」と検討し始めました。

北朝鮮指導部は4・19革命を非常に注意深く観察し、韓国内の「革命勢力」の強さを検討しました。

実際は李承晩政権を倒したのは、北朝鮮の地下共産組織ではなく、韓国の学生・市民でした。

翌1961年の朴正煕クーデターでその期待が裏切られた反動で、より組織的な工作へ向かいました。

そのため4・19革命後、朝鮮労働党は韓国工作を担当する組織を再編し、韓国内に地下党組織を作り直す方向へ動きます。

もう一つはキューバ革命やベトナム戦争の影響で、武装闘争による統一という発想が強まったことです。

ソ連のフルシチョフが唱えた「平和共存」路線への反発は、この武力路線を正当化する背景の一つではありましたが、出発点というより追い風でした。

1964年2月27日、朝鮮労働党中央委員会第4期第8回総会で、北朝鮮は後に「三大革命力量」と呼ばれる戦略を明確化しました。

1.北朝鮮を政治・経済・軍事の「革命基地」として強化する。四大軍事路線(全人民の武装化、全国土の要塞化、全軍の幹部化、全軍の現代化)と経済・国防並進路線がこれに当たる。

2.韓国内に地下革命組織を建設し、労働者・農民・青年学生を組織化して「反米・反独裁の民族解放民主主義革命」を起こす。北はこれを「支援」する立場とされた。

3.国際的革命力量 — 社会主義陣営・第三世界との連帯を強め、米国を孤立させる。

という三本柱です。

このうち韓国内については、反政府勢力を組織する → 社会的不満を利用する → 統一戦線を作る → 最終的には韓国国民自身による革命を起こす

という発想でした。


朝鮮の「三大革命力量」路線統一革命党工作を韓国で実行

中心人物とされたのが金鍾泰(キム・ジョンテ/김종태)です。

韓国側の資料では、金鍾泰、金質洛(キム・ジルラク)、李文奎らを中心に、1964年3月ごろ「統一革命党結成準備委員会」に相当する秘密組織が作られたとされています。

「統一革命党工作」は、1960年代に北朝鮮が韓国国内に朝鮮労働党と結びついた秘密の革命政党をつくり、韓国内部から朴正熙政権を崩して統一につなげようとした対南工作です。

なる「スパイを送り込んで情報を盗む」工作とは少し違い、韓国内に長期的な地下組織を育てようとした点が重要です。

1968年に韓国中央情報部(KCIA)が摘発した「統一革命党事件」がその中心になります。

統一革命党の目的は、直ちに韓国政府を武力で攻撃することではありませんでした。むしろ長期間かけて韓国社会の内部に組織を作り、政治的危機が訪れたときに一気に革命へ転換させようという考え方でした。

韓国当局の捜査資料によれば、北朝鮮からの指令、工作資金、無線通信、暗号、秘密渡航などが用いられ、元南労党関係者、革新的知識人、学生、青年などへの組織工作が進められました。

韓国学中央研究院は、金鍾泰が北朝鮮の対南工作責任者・許鳳学から指令と資金を受けたとしています。


青瓦台襲撃事件(1・21事態)

1966年ごろから朝鮮半島では、北朝鮮によるDMZ越境、工作員・ゲリラの浸透、軍事衝突が急増していました。

このような情勢で、1968年1月5日、北朝鮮の31人の分遣隊が黄海道沙里院付近で隔離され、建物への突入や暗殺を想定した訓練を繰り返しました。

そして、1月13日には偵察局幹部から朴正熙を殺害する任務を告げられたとされています。

これが、北朝鮮の第124部隊、対南特殊作戦部隊です。

そして1月17日、31人がDMZを突破し韓国側へ侵入。凍結した臨津江を渡ってソウル方向へ南下しました。

途中で韓国軍兵士に見える服装などを利用し、山岳地帯を通って接近しました。

パジュ付近で木こりの兄弟に発見されました。

隊員らは彼らを解放しましたが、兄弟が当局へ通報したため、韓国軍・警察は警戒態勢に入りました。

そして1月21日夜、一行はソウル市内へ入り、青瓦台北側の彰義門・紫霞門付近まで進みました。

青瓦台までは約500メートルでした。

紫霞門付近の臨時検問所で、警察が31人を職務質問しました。

彼らの説明を不審に思った警察との間で緊張が高まり、正体が露見すると北朝鮮側が機関短銃や手榴弾を使用しました。

銃撃戦となり、隊員たちは青瓦台への集団突入を断念して市内・北岳山方面へ分散しました。

この検問で阻止に当たった鍾路警察署長・崔圭植(チェ・ギュシク)も銃撃を受け死亡しました。

青瓦台への突入に失敗すると、韓国軍・警察はソウル北部から京畿道一帯で大規模な捜索を開始しました。

韓国側の後年の集計では、31人のうち29人死亡、1人(金新朝)生け捕り、1人は北朝鮮へ逃れたと推定されています。

金新朝は韓国側に拘束され、取り調べを受けました。

その供述が北朝鮮の特殊部隊や作戦目的を知る重要な情報源になりました。


統一革命党の摘発

金鍾泰は韓国内だけで活動していたわけではなく、北朝鮮との連絡のために荏子島を中心とする秘密ルートを利用していました。

このルートをつかんだ韓国中央情報部(KCIA)は、金鍾泰の拘束後しその後、李文奎を逮捕しました。

その関係先の捜索で北朝鮮との通信に使われる暗号資料が見つかったとされています。

情報当局は李文奎を捕まえたことを北朝鮮側に悟らせず、彼がまだ活動しているように見せながら通信を監視・利用した、とされています。

韓国情報当局は押収した暗号資料を利用して北朝鮮との通信を追跡し、1968年8月4日ごろ、北朝鮮から送られたとされる「A-3」暗号指令を解読しました。

「李文奎はまだ自由に活動している」と北朝鮮側に思わせ、北朝鮮から連絡船・工作船を送り込ませようとする逆工作を行ったとされています。

これは後に「Z作戦」などと呼ばれる工作です。

その過程で、8月20日に済州島・西帰浦沖へ北朝鮮の武装工作船が接近しました。

軍・警察・情報機関の合同作戦によって工作船側の12人が死亡、2人が生け捕りとなり、船舶や武器などが押収されました。

そして1968年8月24日、中央情報部長・金炯旭(キム・ヒョンウク)が「統一革命党事件」を正式発表しました。

KCIAは関係者を計158人とし、まず73人を送致し、残る85人について捜査中だと発表しました。

KCIAは、統革党が北朝鮮の指令を受けながら各界へ組織を拡大し、将来の民衆蜂起や政府転覆を準備していた、と説明しました。


蔚珍・三陟武装ゲリラ浸透事件(ウルチン・サムチョク事件)

続いて北朝鮮は、韓国東部の太白山脈周辺にゲリラ活動の拠点を築き、韓国人を革命運動に参加させようとしました。

1968年8月は北朝鮮軍偵察局は、韓国に軍事組織を構築するほか、韓国の村民を勧誘して北朝鮮へ連れて行き、工作教育を施した後に韓国へ戻すことを計画します。

そして1968年10月30日から11月2日にかけて、武装要員120人を15人ずつ8個組に分け、3回にわたり韓国東海岸へ上陸させました。

青瓦台襲撃事件と同じ第124部隊に属する要員たちでした。

1968年11月の米国務省の情報分析では、この作戦について、ベトナム戦争で南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が採用していた農村ゲリラ戦を韓国でも実行できるか試そうとした可能性が指摘されています。

彼らは一般の農村住民を集めて北朝鮮の政治思想を宣伝し、革命への参加を求めました。

ゲリラが村民を集め、北朝鮮の宣伝活動を行い、韓国通貨を配り、共産主義運動への忠誠を示す書類に拇印を押させたと報告されています。

場からは朝鮮労働党への入党申請書も発見されたと記録されています。

村民たちを将来の革命組織の構成員にすることが狙いだったのです。

ゲリラたちは住民に参加を求めましたが、武装した集団による勧誘は威圧や暴力を伴いました。

韓国学中央研究院によると、村民を強制的に集めて思想宣伝を行い、ゲリラへの参加を求める書類への署名を強要したほか、抵抗した住民を殺害した事例が報告されています。

一方、住民の一部は脱出して警察へ通報しました。

11月3日早朝には蔚珍郡北面の住民から武装集団の出現が通報され、韓国政府は同日午後に警戒態勢を強化しました。

韓国政府は軍・警察・郷土予備軍を投入しました。

ゲリラは太白山脈の山岳地帯に逃れましたが、冬季の厳しい気候や補給の困難もあり、次第に追い詰められていきました。

1968年12月末までに大規模な追跡作戦は終結しました。

韓国学中央研究院の集計では、111人が死亡、5人が捕獲、2人が投降、2人が逃亡したとされています。

韓国国家記録院などには死傷者数・投降者数の内訳が異なる記録もあります。

韓国側でも軍人・警察官・民間人に多数の死者が出ました。

米陸軍の後年の研究では、韓国側の死者63人、そのうち民間人23人と集計しています。

「北朝鮮の武装ゲリラが韓国の農村に入れば、現地住民が呼応して革命が始まる」という想定が実際の作戦によって試され、それは期待通りにはなりませんでした。


 

対韓工作失敗後の軍部の粛清と金正日の台頭

1968年の対南工作の後、1969年初頭に軍部の大規模な人事刷新が起こりました。

民族保衛相(国防相に相当)の金昌奉、党の対南工作担当秘書許鳳学は粛清されました。

一方では、抗日パルチザン出身の軍幹部崔賢が民族保衛相に就任しました。

また呉振宇が軍指導部で影響力を拡大しました。

金正日は1960年代後半から、映画、文学、芸術、宣伝などの分野を担当していました。

1967年に党宣伝扇動部課長、1971年に文化芸術部長、1973年に組織・宣伝扇動担当書記兼組織指導部長となりました。

なぜ文化芸術や宣伝を担当することが、後継者になるうえで重要だったのでしょうか。

北朝鮮では、宣伝扇動部は単に新聞や映画を作る部署ではありません。

金日成をどのように国民に説明するか、党員にどのような思想教育を行うか、政治的な正統性をどのように位置づけるかに深く関わる部門でした。

金正日は、この分野を通じて金日成の個人崇拝を強化すると同時に、自らを金日成の思想と革命事業の継承者として位置づけることができました。

特に1970年代には、金日成の思想が「金日成主義」として体系化され、金正日はその忠実な継承者としての地位を確立していきます。

1969年の金昌奉・許鳳学らの失脚後、民族保衛相に就任したのが崔賢でした。

崔賢は金日成と抗日パルチザン時代を共にした人物で、呉振宇も金日成を支える軍幹部でした。

こうした革命元老たちは、金正日への後継を支持しました。

また、1973年2月に始まった三大革命小組運動では、若い党員や大学卒業者などが工場、農場、行政機関などに派遣されました。

彼らは現場の生産や思想教育を指導するだけでなく、既存の幹部の活動を監督し、党中央へ直接報告する役割も持っていました。

従来は、

金日成 → 古参幹部 → 地方党組織 → 工場・農場

という指揮系統がありました。

しかし三大革命小組を通じて、

金正日 → 若手党員 → 地方の工場・農場・行政機関

という、金正日を中心とする別の指導・報告網も形成されていきました。

そして1973年9月、金正日は党書記に就任します。

翌1974年2月、朝鮮労働党中央委員会第5期第8回全員会議で政治委員に選出され、内部的に金日成の後継者となりました。

この時点で金正日は32歳でした。

ただし、国民に向けて後継者と明確に公表されたのは、1980年10月の朝鮮労働党第6回大会です。


 

金正日はグルメでコーヒーが好きだった

後年金正日はコーヒー好きとして知られます。

ロシアの極東連邦管区大統領全権代表を務め、2001年の金正日総書記によるロシア列車横断訪問(約3週間にわたる往復約2万キロの旅程)に全行程同行したコンスタンチン・プリコフスキー(Konstantin Pulikovsky)氏の手記『東方急行(Восточный экспресс / The Orient Express)』や当時の証言は、極めて閉ざされていた北朝鮮最高指導者の私生活・嗜好を浮き彫りにした貴重な記録として知られています。

プリコフスキー氏の回想によると、金正日氏の専用装甲列車(「太陽号」)の車内環境と食生活は、当時の北朝鮮国内の困窮(いわゆる「苦難の行軍」直後)とは対照的に、極めて贅沢を極めたものでした。

移動中の列車には各停車駅や飛行機を経由して、フランス・ボルドーやブルゴーニュの最高級ワイン、ヘネシーやレミーマルタンなどの高級コニャック、生きたロブスター、キャビアなどが次々と運び込まれました。

同書では金正日本人が「サーロ(塩漬けの豚脂)が好きで、濃いコーヒーをよく飲む」と語ったと書かれています。

そこでは金正日との24時間にわたる会話、特に食べ物や料理の話が中心になっているそうで、プリコフスキーは金正日の食事がすべて北朝鮮から運ばれ、残飯まで袋に詰めて北朝鮮に送り返されるのを目撃したとも記しています。

ヨーロッパやロシアの高級ホテル・迎賓館レベルのサービスが車内で行われており、厳選された豆を使った本格的なコーヒー、高級茶などが専属の料理人や給仕係(女性接待員)によって提供されていました。

晩餐や映画鑑賞、深夜に及ぶ懇談の席でも、ワインや洋酒とともに上質なコーヒーが好んで供されていた様子が語られています。

プリコフスキー氏の証言内容は、金正日氏の専属料理人を長年務めた藤本健二氏の手記(『金正日の料理人』など)とも強く符合しています。

食材や嗜好品(コーヒー豆、酒、調味料、果物など)は各国の本場から直接買い付け・空輸させていたとされ、西欧の食文化やカフェ文化に対する知識や関心も非常に高かったことが知られています。

金正日政権下の特権階級・外交官の間では、西欧やロシアとの交流、あるいは海外赴任を通じてエスプレッソやレギュラーコーヒー、インスタントコーヒーが「特権層の象徴的な嗜好品」として消費されていました。

この嗜好は、近年の平壌市内で見られるカフェ文化の拡大(ウィーン風カフェやホテル内の本格エスプレッソバーの登場など)にも影響を与えています。


 

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