朝鮮戦争がいったん休戦という形で終結し、荒廃した北朝鮮を、ソ連を中心とする共産主義国家連合の協力で短期間に復興しました。
その後、1956年に、それまで共産主義国として協力関係にあったソ連と中国が対立し始めます。
共産主義国家連合が崩れ始め、もともとはソ連の強力ばバックアップで樹立した金日成政権も、この頃から自主、自立、自衛の主体思想(チュチェ思想)による自主路線による増産体制を目指し始めます。
しかし、当時の北朝鮮は朝鮮戦争や韓国への脱出者などにより、当時の北朝鮮は慢性的な労働力不足に悩まされていました。
そのような労働力の補充が必要になったことを背景に在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が始まります。
当時の北朝鮮では、一部の外国人向けの施設を除いて、コーヒーを飲む習慣はありませんでしたが、日本での喫茶店に行った経験やインスタントコーヒーなどの仕送りで、一部の帰国者はコーヒーを飲んでいたと言われます。
ソ連のフルシチョフのスターリン批判による共産主義諸国の変化
1953年ソ連のスターリンが亡くなると、1953年から1958年ごろまで、マレンコフ・ベリヤ・モロトフ・フルシチョフらの権力闘争が起こりました。
そのさ中の1956年にフルシチョフはスターリン批判を行います。
スターリンの「個人崇拝」、党幹部への不法な弾圧、拷問や冤罪、独断的な政治、軍・党指導者への粛清を問題にしました。
それをきっかけに東欧では、スターリン時代の1949年スパイ疑惑をかけられ処刑されたハンガリー共産党の有力者ライク・ラースローの名誉が回復され、1956年10月6日ライクの遺体が再埋葬されました。
またポーランドではスターリン時代に失脚していたヴワディスワフ・ゴムウカが復権しました。
ハンガリーでは、10月23日に民主化の学生でもが始まり、それが革命となり改革派のナジ・イムレが首相になります。
イムレ政権では一党独裁体制の解体・ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリー中立の表明など次々と民主化・自由化政策を打ち出しました。
しかし、ソ連はスターリン批判をしたものの、共産主義自体を否定したわけでなく、ハンガリーに軍事介入し、ブダベストを占領し、イムレを拘束し、1958年にKGBによる秘密裁判で1958年6月16日に絞首刑になります。
その後、ナジに取って代わったカーダール・ヤーノシュは、デモ隊など自由民主化を求める動きを徹底弾圧しました。
その後、ハンガリー社会主義労働者党として、一党独裁制が続きました。
中国とソ連の対立
中国の毛沢東は1956年春の段階では、スターリンの誤りを批判することに一定の賛意を示していました。
毛沢東自身、スターリンの対中国政策に長年かなり不満を持っていたからです。
ソ連大使との会談でも、毛はスターリンの中国革命への介入や判断ミスについて率直に語っています。
しかしポーランド・ハンガリー事件後、中国指導部は急速に慎重になります。
スターリンを全面否定すると社会主義体制そのものが崩れると認識するようになりました。
フルシチョフが攻撃した中心は「個人崇拝」で、スターリンを絶対的な指導者として神格化する、指導者の判断が党より上に置かれる、反対者を排除する、一人の人物に巨大な権力が集中するという体制が問題だったと批判したことです。
これにより「国の毛主席への崇拝はどうなのか?」という疑問が湧きかねないのです。
北朝鮮はソ連派、中国派を排除し、金日成の独裁を強化
1956年6~7月、金日成はソ連・東欧諸国を訪問しました。
その際フルシチョフは、金日成に対して個人崇拝や政治・経済運営を改善するようかなり強く要求しました。
そして、金日成が帰国すると、ソ連と関係の深いソ連派と、中国延安で活動していた延安派の党幹部たちが、「金日成の個人崇拝は問題だ」「党内民主主義を回復すべきだ」と批判しました。
1956年8月30~31日の朝鮮労働党中央委員会全員会議で、この批判が表面化します(8月宗派事件)
ところが金日成は党内多数派を押さえており、批判者たちを逆に失脚させました。
何人かは中国へ逃亡しました。
ソ連と中国は、「金日成はやりすぎている」と判断しました。
1956年9月、ソ連からアナスタス・ミコヤン、中国から彭徳懐を中心とする共同代表団が平壌を訪れます。
彼らは金日成に、
・粛清した人物を復職させる
・逮捕者を釈放する
・党内で批判を認める
よう要求しました。
金日成は一度は譲歩し、党会議を再び開いて一部の決定を撤回します。
これは金日成にとって非常に屈辱的でした。
金日成はこれを北朝鮮の主権への干渉と受け止めました。
表面的には譲歩しましたが、ソ連・中国代表団が帰ると、金日成は再び反対派を排除していきます
最終的に、ソ連派、延安派、国内派など金日成以外の主要な政治勢力はほぼ壊滅しました。
これによって1950年代末には、朝鮮労働党は事実上金日成中心の党になります。
結果的にはフルシチョフのスターリン批判後、金日成の独裁が強化されることになりました。
千里馬(チョルリマ)運動
8月宗派事件で党内の親ソ派・延安派を排除した金日成が、外国援助の減少を大衆動員で補い、自立路線(後の主体思想)を固めるという政治的狙いがありました。
1956年12月の朝鮮労働党中央委員会全員会議で金日成は千里馬(チョルリマ)運動を提唱しました。
1958年頃から本格化した北朝鮮の大衆動員型の経済建設運動です。
名前は「一日に千里を駆ける伝説の馬」に由来し、「千里馬の速度で走ろう」というスローガンのもと、朝鮮戦争後の復興と社会主義工業化を急ピッチで進めることを目指しました。
千里馬運動は大量の労働力を必要としました。
朝鮮戦争で人口を大きく失った北朝鮮にとって、技術や教育を持つ在日朝鮮人の受け入れは、労働力と資本の補充という実利がありました。
そして、金日成が1958年9月に在日朝鮮人の帰国を歓迎する声明を出しました。
第2次世界大戦終結後の日本の在日朝鮮人社会
1945年8月、日本の植民地支配の終結当時、日本には約200万人の朝鮮半島出身者がおり、多くは朝鮮半島へ帰りましたが、数十万人が日本に残りました。
解放直後には各地に朝鮮人の自治組織ができ、それをまとめる形で1945年10月15日に「在日本朝鮮人連盟(朝連)」が結成されます。
しかし、朝連内部では金天海ら共産主義者、日本共産党と関係の深い活動家、左派民族主義者などの影響力が急速に強まりました。
当時の日本共産党は現在の日本共産党とはかなり違い、武装闘争的な革命路線へ傾斜しています。
これに反発する別の組織がいくつも結成され、これらがまとまり、その後1946年10月3日に東京・日比谷公会堂で「在日本朝鮮居留民団」がに誕生します。
やがて、1948年8月には朝鮮半島南部のアメリカの占領地で、大韓民国が成立、同年9月には半島北部のソ連の占領地に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立します。
韓国を民団が支持し、北朝鮮を朝連が支持するようになりました。
しかし、朝連は反占領軍的暴力団体として、GHQの意向で、日本政府より解散させられます。
解散した一派はその 後は、1951年に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を形成します。
1954年ごろから北朝鮮は在日朝鮮人を「共和国の海外公民」と位置づける姿勢を強めます。
金日成政権側は、民戦に対して、「なぜ朝鮮人が日本共産党の指導を受けて、日本革命のために活動しているのか。朝鮮人なら朝鮮革命と祖国統一のために活動すべきではないか」という姿勢でした。
そして、それに呼応し、民戦の韓徳銖らが日本共産党路線を批判して、1955年に朝鮮総連を結成します。
朝鮮総連は在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業を推進していくことになります。
朝鮮総連が推進した在日朝鮮人の帰国事業
朝鮮総連結成直後の1955年9月、総連代表団が平壌を訪れ、金日成と会談しています。
金日成が韓徳銖を強く支持しました。
金日成は、在日朝鮮人運動について、日本政府打倒を主目的にするのではなく、米国や李承晩政権への反対、朝鮮統一など北朝鮮の政治路線に合わせることを求めました。
北朝鮮は1950年代後半から総連系民族学校への教育援助費・奨学金を送り、教材、映画、文化交流、祖国訪問などを通じて、在日社会と北朝鮮の結びつきを強めていきました。
1958年後半から朝鮮総連は、北朝鮮への移住を単なる個人的移住ではなく、「祖国への帰国」という大衆運動として推進します。
朝鮮総連の地方組織、民族学校、集会、機関紙などを使って、
「祖国では仕事が保障される」
「住宅が与えられる」
「教育や医療を心配しなくてもよい」
「社会主義祖国の建設に参加できる」
といったイメージが広められました。
朝鮮総連中央常任委員会宣伝部が1959年11月に作った『帰国者のための資料』第2集には「共和国北半部を地上の楽園と呼び、幸福な生活を楽しんでいる」という趣旨の記述があり、食糧や住宅、生活水準の向上が強調されていました。
帰国事業は在日朝鮮人にとって差別からの解放への期待
帰国事業が始まった1959年前後の日本では、在日朝鮮人はかなり強い差別と社会的・制度的不利益を受けていました。
そして、これが「北朝鮮へ行けば差別から解放される」という帰国事業の宣伝を説得力あるものにした大きな背景の一つです。
戦前から日本に住んでいた朝鮮人は、日本の植民地統治下では日本国籍を持つものとして扱われていました。
しかしサンフランシスコ平和条約発効後の1952年、日本国籍を失い、外国人として扱われることになります。
そのため1950年代末の在日朝鮮人は、国民年金や国民健康保険、児童手当などには国籍条項があり、在日朝鮮人は加入できませんでした(多くは1980年代の難民条約批准後まで続きます)。
公営住宅への入居も制限されていました。
公務員や大企業への就職はほぼ閉ざされ、民間企業でも国籍や出自を理由に採用を拒まれることが一般的でした。
結果として自営業や日雇い、零細産業に集中し、生活保護受給率は日本人平均をはるかに上回っていました。
日本政府や一部の自治体が帰国事業を「福祉負担の軽減」という観点からも歓迎していました。
住宅の賃貸拒否、結婚差別、学校でのいじめなど、社会的な偏見も根強く、「朝鮮人」であることを隠して生きる人も少なくありませんでした。
こうした閉塞状況が、朝鮮総連による「地上の楽園」宣伝や、韓国政府への不信と結びついて、(出身地の大半が南部であったにもかかわらず)多くの人が北朝鮮行きを選ぶ背景になったとされています。
日本のメディアも帰国事業を後押し
一方で朝日、読売、毎日、産経、共同通信などの大手メディアも、北朝鮮の復興や帰国事業を肯定的に取り上げました。
朝鮮戦争で壊滅した市街地に建った新しい集合住宅、大通り、モランボン劇場、金日成総合大学など、復興の速さ自体は実際に目覚ましく、ソ連・中国・東欧諸国の援助で平壌の再建は本物でした。
日本側は帰国事業を「人道問題」と位置づけ、当時の在日朝鮮人が日本で置かれていた貧困・差別の状況と比較すると、北朝鮮が「まし」に見える土壌がありました。
また在日朝鮮人の帰国者についても、帰国者用アパート、清津港での歓迎風景など、1960年以降は「先に帰った人が元気に働いている」姿も見せられました。
寺尾五郎の「38度線の北」で、北朝鮮の貧しさや遅れもかなり書いているのですが、それをすべて「社会主義建設の途中だからであり、まもなく克服される」と解釈しているところが、この本の大きな特徴です。
『38度線の北』は寺尾が1958年9月に北朝鮮を訪問した経験をもとに書き、1959年4月に新日本出版社から刊行された263ページの本です。
寺尾が最も感銘を受けたのは、戦争で破壊された北朝鮮が猛烈な勢いで工場・住宅などを再建していることでした。
北朝鮮が千里馬のような速度で後進性を克服しており、五カ年計画が終われば、鉄鋼を除くほぼすべての分野で「2年前の日本」の水準を上回ると予測しています。
さらに、日本が「東洋一の工業国」と誇れるのも、せいぜい今年か翌年までだ、というほど楽観的に評価していました。
また、1963~64年ごろまでには、何らかの形で南北朝鮮が統一されるだろうと予測しています。
これは在日朝鮮人にとって非常に重要でした。
当時日本にいた朝鮮人の9割以上は南部出身でした。
「自分は慶尚道や済州島出身だから北朝鮮には帰れない」という問題があります。
しかし、「数年後には南北統一される」と信じるなら、「とりあえず北朝鮮へ行っても、やがて故郷の南部とも一つになる」という判断が可能になります。
この本は街で普通の人を捕まえて聞いて、普通の人々が、「生活はよくなっている」と答えるという形をとっています。
ベルギーの歴史学者アドリアン・カルボネはこの「現地の普通の人から直接聞いた」という真正らしさが、本の説得力を高めたと分析し、南部出身の在日朝鮮人に北朝鮮行きを決断させる要因になった可能性を指摘しています。
実際に後に北朝鮮を脱出した金鍾国は、『38度線の北』を読んだあと北朝鮮への帰国手続きをしたと証言しています。
帰国事業に強硬に反対し、実力行使で阻止しようとした民団と韓国政府
一方、民団は1959年に始まった北朝鮮への帰国事業に、最も強硬に反対した勢力の一つでした。
1959年当時の在日朝鮮人の大部分は、現在の韓国にあたる朝鮮半島南部の出身者で、帰国事業の対象となった在日コリアンの約97%が南部出身だったとされています。
民団・韓国側からすると、「彼らの祖国は大韓民国であって、北朝鮮ではない」ということになります。
1959年2月13日、日本政府が「本人の自由意思なら北朝鮮への帰還を認める」という方針を決めました。
韓国政府はこれに強硬に反対しました。
日本が北朝鮮への移住を公式に支援することを、「韓国国民を共産政権へ送る行為」と受け止めたのです。
日本の外交青書にも、韓国側が日本の政策を「強制送還」だと非難し、帰還実施直前まで反対し続けたことが記録されています。
「共産主義国家へ行けば自由がなくなる」
「一度行けば日本へ戻れなくなる」
「総連の宣伝を信用してはいけない」
という反宣伝を行いました。
全組織を動員し、輸送列車を実力で停止させるなどの阻止運動を行いました。
1959年12月の第1次帰国直前、新潟へ向かう列車を阻止しようとする事件も起きていて、逮捕者11人が出ました。
北朝鮮への帰国者が新潟港から出航する前に滞在し、本人の意思確認や出国手続きを受けるために設置された新潟赤十字センターが開設されましたが、そこで爆破未遂事件が発覚しました。
車進と李麟基の2人が逮捕され、ダイナマイトが押収されました。
これは民団の北送反対運動の過激化の一環として扱われていますが、民団中央が爆破を正式に指令したとまでは確認できず、後年の調査で韓国駐日代表部の情報担当書記官・金永煥ら韓国側の工作ルートとの関係が指摘されています。
これら韓国政府の反対に対し、日本政府は「北朝鮮を承認する政治行為ではなく、本人の居住地選択の自由の問題である」
と反論しました。
日本政府は「強制送還ではなく自由意思による本人の選択による人道的な移住」と公式に説明しています。
帰国後の現実
当事者である帰国者にとって、「地上の楽園」「衣食住の心配がない」という宣伝を信じて渡った約9万3千人を待っていたのは、宣伝とはかけ離れた現実でした。
渡航後の北朝鮮で帰還者は差別や貧困に苦しみ、政治犯収容所に送られるケースもあったという脱北者の証言が数多くあります。
「帰国者」は出身成分(身分制度)上、資本主義国から来た信用できない層として扱われ、監視対象になりました。
北朝鮮は社会主義で、元々は平等な社会というのが建前ですが、実際には「出身成分(チュルシンソンブン)」と呼ばれる、世界でも類を見ないほど厳格で過酷な身分制度が存在します。
金日成とともに抗日パルチザン闘争を戦った人々の末裔、朝鮮戦争での戦死者の遺族、党や軍の最高幹部などの核心階層、戦前から平凡な農民や労働者だった人々、中国や日本からの帰国者の一部などの動揺階層、かつての地主、資本家、キリスト教や仏教の信者、韓国へ逃亡した者の家族、そして日本からの帰国者(在日朝鮮人)の多くが属する敵対階層です。
北朝鮮政府から見れば、彼らは「資本主義国である日本で、資本主義の空気を吸って生きてきたスパイ予備軍」であり、最も警戒すべき敵対階層だったのです。
日本に残った家族とは事実上生き別れになり、日本人妻の里帰りも長く実現しませんでした。
最近の研究でも、9万3000人余りの帰国者の大多数は再び日本へ戻ることがありませんでした。
日本でも1961年~1962年頃に、先に行った親戚から妙な手紙が来ることが多くなり、宣伝とは違うらしいという噂が広まり、希望者が激減しています。
帰国者が日本の家族へ送る手紙は北朝鮮当局による検査・検閲の対象になっており、「食べ物がない」「帰りたい」「ここへ来るな」「政治的に危険だ」と率直に書くことには大きな危険がありました。
国連の北朝鮮人権調査委員会も、帰国者の日本宛ての手紙が検査・検閲されていたと認定しています。
国連報告には、日本に残った男性が北朝鮮の親族に「娘もそちらへ送ろうと思う」と書いたところ、その後の手紙が急に暗号めいた内容になった事例があります。
北朝鮮の家族は、「子供は親と一緒に暮らすほうがよい」などと書いてきました。
直接、「娘を北朝鮮へ絶対によこすな」とは書けません。
しかし日本の家族には、「これは娘を送るなという警告だ」と分かったわけです。
ある北朝鮮の「帰国者」が日本の兄に送った手紙に貼った切手の裏面を見せました。
切手の裏には『お兄さん、こちらはお出かけの自由もありません。兄は絶対にここに来ないでください」と書かれていました。
検閲にかからずに「来るな」というメッセージを家族に気付かせるため、「弟が大学を卒業して、結婚したら、お嫁さんも一緒に会いましょう」と繰り返し書いた川崎栄子さんの例もあります。
その帰国者の弟は小学校4年生でしたので、大学を卒業して結婚するというのは遠い先のことです。
このように、遠い未来の話だけを繰り返し書くことで、来てはならないというメッセージを伝えました。
「もういちど、会いたい…」北朝鮮政府を訴える史上初の裁判へご支援を(目標金額達成済み)
帰国者への仕送りとコーヒー
「地上の楽園」と宣伝されたものの現地の生活は厳しく、帰国者は早い段階から日本の親族に物資や金銭を求める手紙を送るようになりました。
北朝鮮側も帰国者を外貨獲得源とみなし、日本の親族との連絡を黙認・奨励した面があります。
日本の親族が朝鮮総聯系の機関や旅行社を通じて送金、または帰国船・万景峰号(1992年以降は万景峰92号)での訪朝時に現金や日本製品(衣類、家電、自転車、薬など)を直接持ち込む。
郵便小包も使われました。
北朝鮮内では、送金は「外貨商店」で使える引換券や現地通貨に換えられ、その過程で国家が大きな手数料・為替差益を取っていました。
仕送りの有無で帰国者の生活水準は大きく分かれ、日本に親族を持つ帰国者は「ヤポンサラム(日本人)」などと呼ばれ、監視の対象でありながら経済的には優遇される二面性がありました。
日本の親族が円を送る → 北朝鮮の銀行が日本円という本物の外貨を取得する → 帰国者には国内でしか使えない外貨兌換券(パックントン)を渡す → 帰国者は外貨商店でそれを使うという仕組みになって、日本円そのものを国家の外貨準備に取り込んでいました。
日本人配偶者や帰国者の手記を読むと、お湯は基本的に自分で沸かします。
燃料は練炭(石炭)、薪、都市部では電気コンロや電熱器(電気が来ている時間に)。
ガスは普及していません。
電力が不安定なので、電気製品より練炭コンロや薪が現実的で、朝夕に一度に湯を沸かして魔法瓶に入れておく家庭が多いです。
インスタントコーヒーは1980〜90年代の仕送り品として実際によく喜ばれたものの一つです。
北朝鮮ではコーヒー自体が貴重で、自分で飲むよりも贈り物や「賄賂」として役人に渡す用途、あるいは市場(チャンマダン)で売って現金化する用途が大きかったとされます。
コメント