第二次世界大戦以前の日本統治時代、現在の北朝鮮・平壌には喫茶店が存在し、コーヒーも飲まれていました。
しかし、太平洋戦争が始まると、日本はコーヒーの輸入を禁止しました。その後のソ連占領期には、一部のソ連占領軍関連施設でコーヒーが飲まれていた可能性はありますが、主な飲み物はお茶でした。
そして、朝鮮戦争が始まります。
北朝鮮戦線に展開したアメリカ兵は、日常的にコーヒーを飲んでいました。
朝鮮戦争の勃発
金日成が1950年6月25日に朝鮮人民軍を38度線の南へ進軍させたのは、李承晩政権を打倒し、共産主義体制のもとで朝鮮半島を統一するための、またとない機会だと考えたからです。
これは、単にスターリンから命令されて行ったものではありません。公文書などの史料からは、むしろ金日成自身が繰り返しモスクワに対して南進の許可を求めていたことが分かっています。実際、スターリンは1949年の段階では、金日成の要求を何度も拒否していました。
38度線はもともと、1945年の日本の降伏後、ソ連軍とアメリカ軍の占領地域を分ける境界線として設定されたものでした。
しかし1948年までには、朝鮮半島には互いに対立する二つの政府が成立していました。
- 平壌の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)――金日成
- ソウルの大韓民国(韓国)――李承晩
両政府とも、相手側を恒久的かつ正統な国家として認めるのではなく、自らこそが朝鮮半島全体を代表する政府であると主張していました。本格的な戦争が始まる以前から、国境周辺ではすでに武力衝突が発生していました。
そのため金日成は、南への侵攻を外国を征服する戦争というよりも、朝鮮民族内部の内戦を軍事的統一によって決着させるものとして捉えていたのです。
1950年4月、金日成はモスクワでスターリンと会談し、戦争は短期間で勝利できると主張しました。
金日成は、韓国内の共産主義ゲリラや李承晩政権に反対する勢力が北朝鮮を支持し、南側でも民衆蜂起が発生する可能性があると考えていました。
また、北朝鮮は通常兵力の面でも大きな優位性を持っていました。
ソ連の支援によって、北朝鮮軍には戦車、砲兵、航空機などが供与されていました。一方、アメリカ政府は韓国軍に戦車などの強力な攻撃兵器を意図的に供与していませんでした。その理由の一つには、李承晩自身が北への攻撃を開始することをアメリカが懸念していたことがあります。
この軍事力の差が、北朝鮮軍による緒戦の驚くべき進撃速度を説明する一因となります。侵攻開始からわずか3日後には、ソウルが陥落しました。
1949年を通じて、スターリンは金日成による南進の要求を拒否していました。
スターリンは、北朝鮮による侵攻がアメリカの介入を招くことを恐れており、さらに北朝鮮が本当に勝利できるかどうかについても確信を持っていなかったからです。
しかし1949年から1950年にかけて、国際的な戦略環境は大きく変化しました。
共産主義陣営では、いくつかの重要な出来事が相次いでいました。
1949年8月:ソ連が原子爆弾の実験に成功しました。
1949年10月:毛沢東率いる中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を成立させました。
1949年6月:アメリカ軍の戦闘部隊の大部分が韓国から撤退しました。
こうした状況を受けて、金日成は再びスターリンに働きかけました。
1950年4月の会談で、金日成はスターリンに対し、戦争は短期間で勝利できる可能性が高いと説得しました。
スターリンは条件付きで侵攻を承認しましたが、アメリカが介入した場合には中国が北朝鮮を支援する必要が生じる可能性があるため、毛沢東の同意も得ることを求めました。
毛沢東も最終的に計画を受け入れました
その後、金日成は1950年5月に北京を訪れました。
毛沢東は、とりわけアメリカによる軍事介入の可能性を懸念し、当初は慎重な姿勢を示していました。
しかし、スターリンがすでに作戦を承認していることを知ると、最終的には金日成の計画を受け入れました。
金日成には、アメリカ政府が韓国を守るために参戦しないだろうと考える理由もありました。
アメリカ軍の戦闘部隊は1949年までに大部分が撤退しており、ワシントンでは韓国が日本ほど重要な地域とは考えられていませんでした。
アメリカ国務省の歴史資料でも、金日成政権が「韓国はアメリカにとって死活的な戦略的利益ではない」と判断していたことが指摘されています。
ただし、ここには一つ重要な誤解があります。
1950年1月にアメリカ国務長官ディーン・アチソンが行った、いわゆる「防衛線(defensive perimeter)」演説で、韓国がアメリカの太平洋防衛線の外側に位置しているように見えたことから、この演説が金日成やスターリンに事実上の「青信号」を与えた、と説明されることがあります。
皮肉なことに、金日成の当初の軍事的判断は、一部については正しかったと言えます。
北朝鮮軍は実際に、韓国のほぼ全域を制圧するところまで進撃しました。1
950年9月までに、韓国軍とアメリカ軍は朝鮮半島南東部の狭い釜山橋頭堡まで追い込まれました。
しかし金日成が決定的に誤ったのは、政治的な判断でした。
アメリカは実際に参戦し、しかも大規模な軍事介入を行ったのです。
朝鮮戦争の経過
1950年6月25日
およそ10万人の北朝鮮軍が38度線を越え、大規模な奇襲攻撃を開始しました。
北朝鮮軍は韓国軍を急速に圧倒し、数日以内に首都ソウルを占領しました。
国連安全保障理事会は韓国を防衛するための多国籍軍の派遣を承認しました。その軍事要員の約90%をアメリカ軍が占めていました。
1950年8月~9月
国連軍と韓国軍は敗北寸前まで追い込まれ、朝鮮半島南東部の釜山港を中心とする約5,000平方マイルの狭い防衛地域に立てこもることになりました。
1950年9月15日
アメリカ軍のダグラス・マッカーサー将軍は、北朝鮮軍の前線から約150マイル後方に位置する仁川への大胆な上陸作戦を指揮しました。
この戦術的な作戦によって北朝鮮軍の補給線が分断され、国連軍は釜山橋頭堡から反攻することが可能になりました。
その後、国連軍はソウルを奪還し、北朝鮮軍を中国国境の鴨緑江付近まで押し戻しました。
1950年10月~11月
国連軍が中国国境へ接近したことに脅威を感じた中国は、数十万人規模の部隊を鴨緑江の対岸から北朝鮮へ投入しました。
中国軍による大規模な反攻によって国連軍は敗走し、厳しい冬の中で急速な撤退を余儀なくされました。
その結果、戦線は再びソウルより南まで押し戻されました。
1951年~1953年7月27日
1951年半ばまでには、戦線はほぼ元の38度線付近で安定し、過酷な塹壕戦を伴う膠着状態となりました。
約2年間に及ぶ交渉の末、1953年7月27日に休戦協定が締結され、戦闘は終了しました。
そして、厳重に軍事化された非武装地帯(DMZ)が設定されました。
朝鮮戦争では、極めて多くの人命が失われました。
約300万人が死亡したと推定され、その少なくとも半数は民間人だったとされています。多くの都市や町が戦闘に巻き込まれ、大規模な爆撃にもさらされました。
正式な平和条約ではなく休戦協定によって戦闘が停止したため、現在でも厳密には南北朝鮮は戦争状態にあるとされています。
1953年に設置された非武装地帯は、現在も両国の事実上の境界線として機能しており、世界で最も厳重に軍事化された国境地帯の一つとなっています。
平壌の破壊
平壌は朝鮮戦争を通じて大規模な爆撃を受け、この戦争で最も激しく攻撃された都市の一つとなりました。
アメリカ極東空軍は、1950年6月の開戦から数週間以内に平壌への空爆を開始しました。
当初はB-29爆撃機によって、鉄道操車場、兵器工場、飛行場、工場など、「軍事・産業目標」と分類された施設が攻撃されていました。
しかし1950年末に中国が参戦すると、爆撃作戦の性格も変化しました。
都市部への攻撃に関する制限が緩和され、焼夷弾による攻撃も許可されるようになりました。
1951年1月初旬には、平壌に対する焼夷弾攻撃が実施されました。
その後、さらに大規模な空襲が行われます。
1952年7月11日の「オペレーション・プレッシャー・ポンプ(Operation Pressure Pump)」では、平壌各地の目標に対して1,200回を超える出撃が行われました。
さらに1952年8月29日には、それを上回る規模の空襲が実施されました。
戦争終結間近の1953年5月には、アメリカ軍機が平壌北部の灌漑用ダムを破壊し、水田や鉄道路線を浸水させました。
この作戦は、朝鮮戦争における爆撃作戦の中でも、現在まで特に議論の多いものの一つとなっています。
1953年の休戦協定締結までに、平壌の市街地の約75%以上が破壊されたとする推計が多く見られます。
アメリカ空軍の指揮官自身も、その破壊規模について率直に語っていました。後にカーチス・ルメイは、北朝鮮のほぼすべての町を焼き払ったという趣旨の発言をしています。
北朝鮮全土に対し、アメリカ軍は約63万5,000トンの爆弾などを投下したとされ、その中には数万トンのナパーム弾も含まれていました。
これは第二次世界大戦の太平洋戦域全体で使用された爆弾の量を上回っていたとされています。
朝鮮戦争中の北朝鮮地域におけるコーヒー文化――事実上国連軍側だけのもの
アメリカ兵にとって、コーヒーはぜいたく品とはほとんど正反対の存在でした。
インスタントコーヒーは軍用の野戦食の一部として支給されていました。
アメリカ軍関係の資料によると、第二次世界大戦中に使用されていた小袋入りのインスタントコーヒーは、朝鮮戦争でも引き続き支給されていました。
そのため、1951年ごろに前線付近にいた兵士が、テントやトラック、野戦炊事場のそばで、小さな金属製のカップに熱いインスタントコーヒーを入れて飲んでいるという光景は、十分にあり得るものでした。
1951~1953年のCレーションでは、インスタントコーヒーとともに砂糖や粉ミルクが別に支給される場合がありました。
そのため兵士たちはブラックで飲むこともできましたし、砂糖とミルクを加え、簡単な甘いミルク入りインスタントコーヒーのようにして飲むこともできました。
上の写真は、その状況をよく示す視覚的な例です。
1950年11月、北朝鮮の下碣隅里(Hagaru-ri)で、極めて厳しい寒さの中、アメリカ兵がコーヒーを飲んでいる様子が写っています。
そのような環境において、コーヒーは洗練された嗜好品というよりも、カフェインを摂取し、体を温め、わずかな心理的安らぎを得るための飲み物だったのです。
アメリカ軍の物資は、インスタントコーヒーを含め、軍基地や部隊の内部だけにとどまらず、その外部にも流出していました。
韓国のコーヒー文化に関する学術研究では、朝鮮戦争の最中およびその前後に、アメリカ軍のレーションに含まれていたインスタントコーヒーが、闇市場で価値のある商品となったことが指摘されています。
それまでコーヒーを、ホテルや知識人、西洋化されたエリート層などと結びついた高価な飲み物と考えていた朝鮮半島の人々は、そこでまったく異なる形のコーヒーに出会うことになりました。
粉末+お湯=コーヒー
という、非常に簡単な形です。
この方法であれば、安価に作ることができ、コーヒーミルや特別な抽出器具も必要ありません。また、粉末なので簡単に運ぶことができました。
このことは、主として都市部の「茶房(タバン)」と結びついていたコーヒーが、やがて家庭やオフィス、職場でも飲まれるようになる一因となりました。
そのため韓国の文化史では、朝鮮戦争とアメリカ軍の駐留が、インスタントコーヒーの大衆化における重要なきっかけの一つだったと位置づけられています。
1953年の休戦後、韓国のコーヒー文化は急速に拡大しました。
復興が進むにつれて茶房が急増し、韓国の文化史に関するある資料では、1950年代末までに韓国全土で3,000軒以上のコーヒーショップが存在し、その約3分の1がソウルに集中していたとされています。
一方、1950~1953年の韓国にはアメリカ軍由来のインスタントコーヒーが大量に流入していましたが、北朝鮮はまさにこのアメリカ軍の物資供給網から切り離されていました。
この違いは、その後、朝鮮半島の南北で日常的なコーヒー消費の歴史が大きく異なるものとなった理由の一つだった可能性があります。
ソ連の顧問団はお茶を飲んでいました。
また、1950年後半以降に兵力の大きな部分を占めるようになった中国人民志願軍は、食糧事情が非常に厳しかったことで知られています。
その主な野戦食は「炒麺(チャオミエン)」と呼ばれる、炒った穀物の粉に塩などを加えた食料で、乾いたまま食べたり、場合によっては雪と一緒に口にしたりしていました。
中国人民志願軍にとって、コーヒーは「希少なぜいたく品」だったというよりも、そもそも軍の補給体系の中に存在していない飲み物だったのです。
その一方で、北朝鮮では継続的な爆撃によって都市が破壊されていました。
商業地区そのものが機能できないほど都市が破壊されていたため、通常の意味で喫茶店文化が存続できる状況ではなかったからです。
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