スターバックスは1996〜2000年ごろ、アジア各地に進出しています。
このサイトでも、過去の記事で1996年の日本、19999年の中国、韓国のスターバックスについて書いてきました。
新世界グループによる鄭溶鎮氏によるスターバックス韓国事業の推進
ちなみにのアジア集中展開は、当時のハワード・シュルツCEOが「2000年代はアジアが最大の成長市場になる」と公言していた方針の反映で、日本1号店の成功(初日から行列ができ、予想を大きく上回る売上)がその後のアジア展開を加速させたと言われています。
台湾においても1998年スターバックスの1号店が台北市の天母において一号店が出店されました。
台湾でスターバックスを運営に乗り出したのは、1986年より紙パックコーヒー咖啡廣場を販売していた統一咖啡を擁する統一企業(統一集団)でした。
台湾最大手の食品・飲料コングロマリットで、食品・飲料の生産網だけでなく、7-ELEVENを運営する統一超商がありました。
そして統一企業は、後に台湾だけでなく、上海を中心とする中国東部地域のスターバックスの運営にも携わることになります。
1990年代に中国大陸に進出していたい統一企業
中国は1979年以降経済の鄧小平政権の改革開放路線のもと、各国の投資を呼び込んでいました。
しかし、戒厳令の続く台湾側はそれ以降も公式には中国への投資を禁止していました。
その後台湾の蒋経国政権末期に戒厳令は解除され、続く李登輝政権になると徐々に経済分野での規制も緩和され、1992年には「台湾地区と大陸地区の人民関係条例」が施行され、対中投資・技術協力・貿易が許可されるようになりました。
続いて経済部は1993年3月1日、「大陸地区における投資または技術協力許可規則」を制定し、「許可される分野」、「禁止される分野」、「個別審査を擁する分野」に分けて管理されるようになりました。
このような背景で、台湾の大手企業の中国進出が盛んになり、統一企業の中国大陸進出も1992年に始まります。
1992年1月13日に設立された「新疆統一企業食品有限公司」が統一企業の中国進出の第一号の工場となります。
なぜ、第一号の工場が経済の中心である東側の沿岸部ではなく、はるか西の新疆(シンジャン)ウイグル自治区だったのでしょうか?
1992年当時、台湾ではトマトジュースの需要が大きかった一方、加工用トマトの供給が不足していました。
統一企業は、日照時間が長く昼夜の温度差が大きい新疆産トマトの色・風味・固形分に注目し、ウルムチに中国大陸第1号の会社を設立しました。
統一企業の総経理高清愿(ガオ・チンユエン)が新疆進出を決めた直接的な理由も、良質なトマト原料の確保でした。
一方で、昆山統一企業食品有限公司は1993年5月に設立され、1994年に生産を開始しました。
場所は江蘇省昆山市——上海の西隣に接し、蘇州・無錫・常州にも近い、まさに華東市場のど真ん中です。全国百強県の首位に立つ昆山の開発区に立地し、登録資本9,600万米ドル、総投資額は1億4,300万米ドルに達しました。
昆山は「消費地立地型」——上海を中心とする華東の巨大消費市場に向けて、即席麺や飲料といった日用消費財を大量供給する工場です。
統一が「T字型戦略」と呼んだ、沿海の消費地と長江流域に展開する戦略の、昆山はまさに要の位置にありました。
スターバックスと統一企業との出会い
1996年8月、統一超商総経理の徐重仁(シュー・チョンレン)は台湾で日本の流通専門誌『日経流通新聞』を読み、スターバックスが東京・銀座へ進出するという記事に注目しました。
徐重仁は台湾のセブンイレブン事業で成功し、「流通教父(流通業のゴッドファーザー)」と呼ばれる人物です。
そこで実際に銀座店を視察し、「スターバックスでコーヒーを飲むこと自体が一つの享受・体験になっている」と感じ、台湾への導入を検討しました。
徐重仁は統一超商の飲食事業チームに、米国スターバックス本社へ連絡するよう指示しました。
しかし、当初はスターバックス側から返答がありませんでした。当時、台湾では複数の企業がスターバックスとの提携を希望しており、マクドナルド台湾事業に関係した孫大偉なども早くから接触していたと報じられています。
その後、スターバックスは台湾の提携先を選定する過程で、不動産開発の経験を持つ太子建設へ自ら接触しました。
スターバックスにとって、台湾で店舗を広げるには、ブランドや食品供給だけでなく、
- 良い店舗物件を確保する能力
- 賃貸契約や出店開発の経験
- 都市の商圏情報
- 建物の設計・施工管理
が重要だったからです。
太子建設は統一グループと関係の深い企業で、スターバックスに対して、統一超商の徐重仁を紹介しました。
ターバックスはすんなり統一に決めたわけではありません。
徐重仁はシアトルでの提案プレゼンに招かれましたが、招待リストには統一のほかに2社が入っていました。
つまり複数候補によるコンペだったのです。
スターバックスと統一企業の台湾での提携
徐重仁は代表として徐光宇(シュー・クアンユー)を指名しました。
10月末の提案日まで2〜3週間しかない中、徐光宇は慌ただしく資料を集めて提案書を準備し、シアトルへ飛びました。
徐光宇にとっては、それまで7〜8回渡米していながら初めてのシアトルで、秋の涼しく礼儀正しいこの街に「恋をしているような感覚」を覚えた、という初々しい回想も残っています。
このアメリカ側との交渉は難航した、徐光宇が「第二のブランドか自社ブランドでは」と進言したのに対し、徐重仁は「やるなら第一ブランドとやる」と譲りませんでした。未知の事業に参入するなら最良のパートナーと組み、すでに成功している事業のノウハウを丸ごと吸収するのが成功への近道だ、というのが彼の原則でした。
その後、統一企業側は、シアトル本社に対して自分たちの「最強の強み」を徹底的にプレゼンテーションします。
それこそが、「台湾におけるセブン-イレブン(7-Eleven)の圧倒的な成功実績と流通網」でした。
- 自分たちは台湾で最も多くの小売店舗(セブン-イレブン)を展開しており、最高の立地(不動産)を確保するノウハウを持っている。
- 商品開発から物流、店舗スタッフの教育に至るまで、アメリカのチェーンビジネスを台湾にローカライズして大成功させた実績がある。
- 台湾全土をカバーする強力なサプライチェーンがすでに完成している。
スターバックスにとって、海外展開における最大の壁は「現地の不動産事情」と「サプライチェーンの構築」でした。
統一企業が持つこの圧倒的なインフラとリテール(小売)のノウハウは、スターバックス本社にとって喉から手が出るほど魅力的なものでした。
統一側が最終候補に選ばれた後も、交渉は一度決裂寸前になりました。
統一超商はセブン‐イレブンの経験から、スターバックス店舗も将来的にフランチャイズ方式で広げたいと考えていました。しかし当時のスターバックスは、空港などの例外を除き、ブランド管理のため直営方式を強く重視していました。
この対立から交渉が停滞しましたが、徐重仁がハワード・シュルツに直接手紙を送り、シュルツが台湾を訪問します。
統一星巴克(統一スターバックス)設立
統一側は当初、セブンイレブンで成功した経験から、加盟店(フランチャイズ)方式での展開を考えていました。
しかし米スターバックスはこれに断固反対し、全店直営を譲りませんでした。
この交渉では統一側が妥協し、セブンイレブン式の広範な店舗加盟方式を持ち込まず、スターバックスとの合弁会社を作り、その直営店を運営するということで、スターバックスの厳格なブランド統制を受け入れました。
徐光宇は後年これを振り返り、「その分野の高手(達人)の監督とこだわりは、こちらの学習の手段になる」と語り、直営方式だからこそ開業当初から全店の品質が安定し、出店も速く、3年で黒字化・ブランド確立将来布石を同時に達成できたと、スターバックスの判断が正しかったことを認めています。
結果として、合弁会社「統一星巴克」を設立することに合意します。
徐光宇は統一星巴克の初代総経理として立ち上げを指揮しました。
資本面ではスターバックスは最初から重い出資をしていません。
1998年の設立当初の出資比率は、米スターバックスわずか5%、統一超商50%、統一企業45%だったのです。
これは「許可協議(ライセンス契約)」と呼ばれるスターバックスの海外進出の定型パターンの一つで、海外投資の大部分でまず5%だけ出資するのが同社の常套戦略でした。
現地企業に運営と資本の大半を担わせることでリスクを回避しつつ、本部と現地のつながりは保ち、市場を理解し政策が許せば段階的に持株を引き上げて支配を強める、という手法です。
台湾でも後に50%まで引き上げられ、日本(2015年にサザビー側の株式を買い取り独資化)や中国各地域でも同じパターンが繰り返されました。
台湾のスターバックスの1号店は天母
台湾のスターバックスの一号店として選ばれたのは天母でした。
天母は戦後、米軍関係者の住宅地として発展し、その後もアメリカンスクール、日本人学校、外国人駐在員・外交関係者の家族が集まる地域でした。
洋食店、輸入食品店、ビアパブなども早くから成立し、「アメリカの小さな町」のような生活文化を持っていました。
1998年当時の台湾では、エスプレッソを基礎にしたラテ、英語風の商品名、カウンターで注文して自分で受け取る方式、紙カップを持ち歩く習慣、100台湾元前後の比較的高いコーヒーは、まだ誰にでも自然なものではありませんでした。
そのため天母は、米国式スターバックスの利用方法を最も説明しやすい市場だったと考えられます。
駐在員や帰国子女など、米国や日本ですでにスターバックスを体験している顧客層が集中していたこと、高所得の住宅街で当時としては高価格帯(1杯100元前後、既存チェーンの3倍)のコーヒーを受け入れる購買力があったこと、そして35元コーヒーの怡客や丹堤のような低価格チェーンの主戦場である都心オフィス街とは離れており、ブランドの世界観を静かに確立できる環境だったこと。つまり「最初の顧客がブランドを正しく理解してくれる場所」として、天母は台湾で最も安全な実験場だったと考えられます。
2号店以降の展開は都心(1998年中に10店へ拡大)に向かっており、天母1号店は大量集客の旗艦店というより、ブランドの世界観を正確に提示するショーケースとして機能した後、本格展開は消費の中心地で行う、という段取りだったように見えます。
スターバックスの中国大陸進出で華東地域を担う統一集団
スターバックスは日本での合弁経験からパートナー方式のノウハウを学び、1999年の中国参入でも同じモデルを複製しました。
その際、大中華圏を3地域に分け、香港・広東の代理権を香港の美心(マキシム)集団に、北京・天津を中心とする北方地域を北京美大珈琲に、そして台湾と江浙滬(上海・江蘇・浙江)の代理権を前後して台湾の統一グループに与えました。
ここで重要なのは、3社のいずれも純粋な大陸系企業ではなかったことです。
美心は香港企業、統一は台湾企業、そして北方を任された北京美大もベンチャーファンド系企業が設立した会社で、台湾でマクドナルドを成功させた寛達食品の孫大偉が1999年に中国区の代理権を取得して設立した、台湾人企業家の会社でした。
つまりスターバックスは意図的に、大陸企業ではなく「大中華圏でチェーン外食・小売の実績を持つ企業」を選んだのです。
背景として、1990年代末の大陸には近代的なチェーン店経営の経験を持つ企業がほぼ存在せず、スターバックスがパートナー選定基準としていた「企業の評判、品質管理能力、スターバックス基準で従業員を訓練できるか」を満たせる会社は、台湾・香港勢にしかなかったという事情があります。
当時の上海には「上海星巴克」を名乗る紛らわしい商標の模倣カフェが既に2社存在し、後に訴訟になったほどで、大陸市場の環境はまだそういう段階でした。
統一企業は上海スターバックス以前から、中国大陸で食品・飲料事業を展開していました。華東でも昆山などに生産・販売基盤があり、中国の行政手続き、雇用、調達、物流、商習慣を経験していました。
スターバックスも統一企業について、中国大陸と東南アジアに事業を持ち、食品製造から小売・物流までを統合した企業だと説明しています。統一超商にも多数の店舗を運営するチェーン管理能力がありました。
スターバックスには店舗物件だけでなく、牛乳、パン・ケーキ、紙カップ、倉庫・配送、店員教育、店舗開発を安定して管理できるパートナーが必要でした。
統一企業は食品製造を、統一超商は小売・店舗運営を担当できました。
台湾で両者の能力を組み合わせた仕組みがすでに機能していたため、それを華東へ移植できました。台湾側の関係者記事も、統一には製造資源と数千店舗のチェーン管理経験を組み合わせる独自の能力があったと説明しています。
台湾のスタッフは中国語を使用でき、上海の現地社員との教育・意思疎通を進めやすい立場にありました。
また、台湾ではすでにチェーンカフェ市場が発達していたため、統一チームは、高価格コーヒーの販売、都市中間層への訴求、西洋ブランドの中国語化、台湾・中国圏向け商品の開発を経験していました。
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