台湾の戒厳令解除後、表現の自由化により出現した社会運動や前衛芸術と結び付くコーヒー店甜蜜蜜咖啡館

By Cafesba , 5 7月, 2026
甜蜜蜜咖啡館

1990年代台湾ではコーヒー文化が花開き、羅多倫・丹堤・怡客などによる低価格チェーンのコーヒー店が増えた一方、台北の学生街を中心とする文学・音楽・反文化的な個人喫茶店、エスプレッソ、カプチーノ、カフェラテなどのイタリア式コーヒーの浸透がありました。

また戒厳令の解除による報道や出版、表現の自由化により、1990年代の台湾では、カフェが社会運動や前衛芸術と結び付く例もありました。

その代表的なカフェが甜蜜蜜咖啡館(ティエンミーミー・カフェ)です。


戒厳令解除後の台湾の民主化運動(野百合学運)

台湾では長らく戒厳令(1949年〜)のもとで言論・集会・結社の自由が厳しく制限されていました。

それが1987年に解除(解嚴)され、続いて報道の自由化(報禁解除、1988年)、政党結成の解禁などが一気に進みます。

この解嚴前後の数年間は、抑え込まれていた社会運動が噴き出した時期で、労働運動、環境運動、原住民運動、女性運動など多様な運動が活発化しました。

1988年に蒋経国が死去すると、副総統だった李登輝が総統に昇格します。

登輝は本省人(台湾出身者)初の総統で、民主化を進める意欲を持っていましたが、当時の国民党内には保守的な守旧派も強く、権力基盤はまだ盤石ではありませんでした。

こうした中、大きな問題として残っていたのが「万年国会」でした。

台湾の国民大会の代表や立法委員などの多くは、1940年代に中国大陸で選出された議員たちでした。

その後大陸を追われて台湾に来た後も、改選されないまま何十年も議席に居座り続けていました。

台湾で選挙を行えば大陸の代表を選び直せないという建前のもと、彼らは高齢化してもなお終身で権力を握り続けていたのです。

これが民主化の大きな障害であり、国民の強い不満の的でした。

1990年3月、この国民大会が総統選出(当時は間接選挙)などをめぐって開かれた際、この「万年国会」の老代表たちが、自分たちの権限や任期をさらに拡大しようとする動きを見せました。

つまり、改選もされない特権的な議員たちが、あろうことか自らの権力をさらに延ばそうとしたわけです。これが国民の怒りに火をつけました。

これに抗議して、1990年3月16日、数名の学生が台北の中正紀念堂の広場に座り込みを始めたのが運動の発端です。

抗議はまたたく間に広がり、最盛期には数千人規模の学生が広場に集まって座り込みを続けました。

彼らは白い「野百合(タカサゴユリ、台湾に自生する野の百合)」を運動の象徴に掲げ、これが「野百合学運」の名の由来となりました。

野に咲く百合は、純粋さや台湾の土地に根ざした精神の象徴とされました。

学生たちは主に、国会の全面改選(万年国会の解消)、動員戡乱時期臨時条款(戒厳令的な非常体制を支えていた特別法)の廃止、国是会議(国政の方向を議論する会議)の開催、民主化の日程の明示、といった要求を掲げました。

李登輝総統は学生たちの要求におおむね応える姿勢を示し、学生代表と面会して対話しました。

その後、実際に国是会議が開かれ、1991年には万年国会の老代表が引退し、動員戡乱時期臨時条款も廃止されて、国会の全面改選が実現していきます。

野百合学運は、台湾がその後の本格的な民主化(1996年の初の総統直接選挙など)へと進む、大きな転換点となりました。

甜蜜蜜咖啡館は台湾の民主化とともに生まれた地下文化・社会運動・実験芸術の拠点 

甜蜜蜜咖啡館は、このような背景で1993年に台北で生まれた、コーヒー店と地下文化・社会運動・実験芸術の拠点を兼ねた空間です。

ここは学生、芸術家、劇団、地下音楽家が集まり、作品や思想を発表する「基地」として重要でした。

「甜蜜蜜」という名称は、店ができる以前から若者たちの出版活動で使われていました。

1991年に台湾大学の学生が〈甜蜜蜜的午後〉という文章を書き、1992年には輔仁大学の学生が『甜蜜蜜』という新聞を出していました。

これらの刊行物には、政治・社会に対する風刺、悪ふざけ、無政府主義的な表現、既成の権威をからかう文章や図像などが掲載されました。

その周辺にいた若者たちが、カフェの最初の常連・運営協力者になりました。

こうした地下出版・パロディ・アナーキズム的な言説に関わった層が、そのまま店のメンバーになっていったわけです。

客として集まったのは、学生運動経験者だけではありませんでした。

- 小劇場の俳優・演出家

- 現代美術家

- 地下バンド、実験音楽家

- 映像作家

- 文化・芸術分野の記者

- 既成の文化制度に入りにくい若い表現者

こうした人々が、客、出演者、企画者、店の手伝いを兼ねながら混在していました。

甜蜜蜜の店内は、洗練された西洋風カフェではありませんでした。

呉中煒は、拾い集めた廃材、古い家具、日用品などを店内装飾に利用し、物を少しずつ追加しながら配置を変えていきました。

そのため、店全体が固定された内装ではなく、絶えず変化する巨大なインスタレーション作品のように見えたとされています。

このスタイルは「破爛藝術」、つまり「がらくた・廃品の芸術」として注目され、呉中煒はメディアから「素人芸術家」「破爛藝術の代表」と紹介されるようになりました。

ただし、単なる貧乏風の内装ではありません。そこには、

- 高価で洗練された芸術への反発

- 美術館や劇場だけを正式な文化空間とする考えへの反発

- 廃品から自分たちの場所を自作する姿勢

- 技術的な完成度より、まず行動することを重視する態度

が含まれていました。

創業者の呉中煒(ウー・ジョンウェイ)は、甜蜜蜜を一般的な意味での収益事業として始めたのではなく、人が継続的に集まれる拠点をつくることを重視していました。

彼の人柄を伝える証言があります。「甜蜜蜜」の店舗設営に関わった陳淑強(吳中煒の中学の同級生)は、みんなが集まったのは主に吳中煒のためで、彼の掲げる考え——「俺たちは何でもできる、できないことなんてない」——にとても励まされた、と語っています。

1994年の「台北破爛生活節」も、一切のスポンサーも金もなく、最低限の条件だけで、自分たちで材料を探し、友人たちの無償の手伝いで作り上げたといいます。

吳中煒の共同創業者が蘇菁菁(スー・ジンジン)です。

彼女自身は「どんな気持ちでこの店を開いたかって?儲けるためじゃなく、ただ遊ぶため、志を同じくする友人を見つけるためだった。甜蜜蜜は基地のようなもので、みんなが交流し、ぶつかり合い、表演できる共同の場所を作るためだった」。

そして「私の仕事は厨房担当(笑)。料理は今日はこの2、3品を作ると決めたらそれだけ。チャーハン、カレーライス、あんかけ飯みたいな素朴なものに、おかずを一、二品。他のものが食べたい?ないよ、これだけ。食べるかどうかはお好きに(笑)」。

この飾らない証言は、甜蜜蜜という場所の本質をよく伝えています。彼女はまた、店の「地下的」な性格について、自分たちが意図的に何かのタイプを打ち破ろうとしたのではなく、来る人たちが自然とそういう性質を持っていて、互いに引き寄せ合った結果だと語っています。

こうして見ると、この夫妻の面白さが際立ちます。

一方に「何でもできる」と人々を焚きつけ、ゴミの山から祭りを立ち上げる扇動者・吳中煒がいて、もう一方に、その混沌の基地で毎日チャーハンを作り、店を回していた現実主義者・蘇菁菁がいた。

90年代台湾のカウンターカルチャーの伝説的空間は、壮大な理念だけでなく、「今日はカレーしかないよ」という日常によっても支えられていたわけです。

1993年11月に吳中煒が主宰していた甜蜜蜜咖啡屋が経営難に陥ったとき、彼はまったく意に介さず、むしろ面白い公演をここで見たという一人の客が小劇場の仲間たちを呼び集め、吳中煒が家賃を払えるように気軽な気持ちで公演を打って稼ごうとしました。

この仲間の輪は広がり、1994年1月には半月にわたり16演目・25公演という前例のないリレー公演が実現しますが、皮肉にも活動が始まる前に甜蜜蜜は閉店を免れませんでした。

店を失った後の展開が、彼の名を歴史に刻みます。数か月後、吳中煒はさらに驚くべき「台北破爛生活節」を仕掛け、活動空間を甜蜜蜜の十数坪の室内から広大な野外へと移しました。


第一回・台北破爛生活節(1994年9月)

1994年9月2日から5日、台北の永福橋の下(公館エリアの新店渓河畔)で開催されました。内容は、ノイズ、ロック、小劇場、SMパフォーマンス、インスタレーション、実験短編映画など、あらゆる周縁的表現の寄せ集めでした。

出演者の顔ぶれが記録に残っています。小劇場からは李志宏「摩斯拉」、鍾喬の「民衆劇場」、但唐謨と紀大偉の「粉紅迷宮」など。

楽陣は、学生運動系ロック/ノイズバンドの「431」「濁水溪公社」「零與聲」など、ロックバンドの「骨肉皮」と「敦煌」、在台外国人ミュージシャン、香港のソロ・ノイズユニットPNFと1-666、そして小林賢輔率いる日本のノイズバンドMonellaphobiaは初来台とあって特に注目を集めました。

いかにも吳中煒らしいのは制作の裏側で、ステージ設備のほとんどは吳中煒があちこちから借り、時には失敬してきた物資で組み上げられたものでした。

4夜連続の活動にはのべ1000人以上が集まり、音量問題やヌードパフォーマンスのために警察の臨検をたびたび受け、最終日は「431」のメンバーが一本のアコースティックギターを捧げる儀式で幕を閉じました。

当時の官製大型文化イベントと対比して、破爛節の自由さ、オルタナティブ性、DIY主義は多くの好評を得て、台湾のオルタナティブ文化の初の大集結と見なされ、メディアからは「ウッドストックの台湾版」とも呼ばれました。

 

第二波(1995年)——空中破裂節と後工業藝術祭

翌1995年、運動はさらに拡大します。

90年代のノイズ運動を語るなら、1994年の破爛生活節、1995年の空中破裂節、そして後工業藝術祭(第二回破爛生活節とも呼ばれる)を外すことはできない、とされています。

このうち「空中破裂節」は驚くべき持続型のイベントで、吳中煒は台北の河岸の荒地や廃墟に「村を建て」、拾ってきた(時には盗んできた)廃棄型枠、足場、テント布、発電機でステージを組み、現代の生活・経済・空間・美学の秩序を解体するプラットフォームを作り、すべての人を「駐村(滞在)」に招いて、詩の朗読、即興音楽、劇場、インスタレーション制作を行い、この形式をひと月にわたって維持したといいます。

一晩のイベントではなく、一か月続く無政府主義的な野営村——祭りというより、もう一つの生活の実験です。


今日の台湾の野外フェス文化やインディー音楽シーンの系譜をさかのぼると台北破爛生活節に行きつく

90年代半ばの台北反文化圏は、左傾した学生、若手芸術家、小劇場関係者、バンド、アート記者などほぼ知識人で構成されていたが、その最も先鋭な扇動者は小学校卒の学歴しか持たない芸術家・吳中煒でした。

彼は学校を中退した後、建築労働者、仏像彫刻師、露天商、廃品回収人として働いてきた人物です。

彼は天然の反中産階級的美学によって有機的な荒地を切り開き、あらゆる形式の参加を両手を広げて歓迎しました。

西洋近代性と戒厳令から解放されたいという欲望を体の奥から掘り出しさえすれば、誰でもこの本土的なアナーキー・ユートピアに融け込めた、と評されています。

二回の破爛生活節と空中破裂節は、その後の多くの音響活動形式の起点となり、1995年以降の野外音楽フェス、レイヴ運動、ノイズ運動へとつながっていきました。

参加バンドの濁水溪公社は1999年、俗語や台湾語歌謡の様式を騒々しいギターと電子音に乗せたアルバム『台客的復仇』を発表し、「台客」という言葉の意味を反転させる里程標を打ち立てました。

さらに後年、「簡単生活節」(2006年〜、台北の大型音楽フェス)という名称が「破爛生活節」に似ているのは偶然ではないだろう、という指摘もあります。

つまり、今日の台湾の野外フェス文化やインディー音楽シーンの系譜をさかのぼると、1994年の橋の下で、借り物と盗み物のステージの上、警察に臨検されながら轟音を鳴らしていたあの4日間にたどり着く——一軒の潰れたカフェの「続き」として始まった祭りが、それほど大きな水脈の源流になったのです。

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