1976年に、父蒋介石の後を継ぎ、台湾の総統になっていた蒋経国は、1970年代に十大建設を完成し、1980年になるとさらに十二大建設の大公共事業を進めます。
1980年代前半の台湾は、全土が巨大な工事現場であり、物流の大動脈が動き始めた時期でした。
十大建設によって、造船、鉄鋼、高速道路建設、石油化学などに従事する何十万人もの「新興肉体労働者層」が台湾に誕生しました。
また蒋経国晩年の1987年には、1949年から38年間続いた戒厳令が解除されました。放送局、新聞、雑誌などのメディアが自由化され、広告を掲載できる媒体が多様化し、広告市場は限られた媒体側が優位な「売り手市場」から、広告主が媒体を選びやすい競争市場へ変わっていきました。
このような状況で、台湾では巨大な缶コーヒー市場が形成されました。
伯朗咖啡の誕生
金車(King Car)の創業者・李添財は、最初の飲料製品「麦根沙士(ルートビア)」で大きな損失を被りました。
その後、日本の大手コーヒーメーカーUCCに学び、成熟していた炭酸飲料市場を捨て、缶コーヒー市場への転換を決断します。
当時、台湾は「コーヒーの砂漠」とも呼べる状況で、業界関係者はこの市場に懐疑的でした。
伯朗咖啡以前にも、1976年に味王などが「金咖啡」という缶コーヒーを発売していました。
しかし、当時の商品は砂糖とミルクが多い「コーヒー牛乳」に近く、これはコーヒーではなく「ちょっと苦い謎のコーヒー牛乳」にしか見えませんでした。
本格的なコーヒーを飲みたい層からは「甘すぎて飲めない」ものとされ、甘い乳飲料を飲みたい層からは「だったら安くて新鮮な紙パックの『味全フルーツ牛乳』を買う」とされました。
李添財が着目したのは日本市場でした。
日本の自動販売機で缶コーヒーが大人気であることに気づき、「台湾の工業化が進むにつれ、労働者やサラリーマンの間で『眠気覚まし』と『手軽さ』への需要が爆発する」と大胆に予言したのです。
発売にあたり、ブランド名の選定には特別な労力が注がれました。
社員が辞書を引き、コンピューターで文字を組み合わせ、A4用紙で15センチ以上の高さになる2000以上の候補名が作られました。
選考の基準は「発音が明瞭であること」「字形・字義が安定していること」「舶来品らしい洋風の響きがあること」「具体的・擬人的なイメージを持つこと」でした。
こうして「Mr. Brown/伯朗」という名前が選ばれ、同時に多ブランド戦略として「Coffee Bus」「紅蕃咖啡」「ニューヨークコーヒー」など十数ブランドを同時展開しました。
製品マーケティングの工夫
台湾人が当時苦いブラックコーヒーに慣れていないことを踏まえ、ミルクのコクと適度な甘さのある風味に調整しました。
「高級品」のイメージを捨て、口ひげを蓄えてにっこり笑い親指を立てる親しみやすい「伯朗先生」のキャラクターを採用。
広告は「ドライバー・ブルーカラー労働者・残業するサラリーマン」に完全に照準を合わせ、「八時半了,来一杯伯朗咖啡!(8時半だ、伯朗コーヒーを一杯!)」というキャッチコピーが疲れた人々の心に刺さりました。
営業スタッフが仕入れから陳列まで全部手伝うサービスで、時間と人手はかかっても着実に販路を築いていきました。
1982年の発売直後から60%以上の市場シェアを獲得し、台湾のコーヒー市場のリーディングブランドとなりました。
特に貨物トラックの運転手たちは、それまでビンロウ(槟榔)で眠気を覚ましていましたが、缶コーヒーの手軽さがブルーカラー層に受け入れられました。
台北の大型市場のトイレ清掃を請け負う業者がついでに伯朗コーヒーを販売するなど、独自の流通ルートが生まれ、早朝だけで10箱以上売れることも珍しくなかったと言います。
1983年には全国食品品評会で優良製品特優賞を受賞しています。
競業各社が参入し、台湾に缶コーヒー文化が定着
1985年になると、伯朗咖啡の成功を見て競合各社が本格的に参入しました。
同年5月には黒松が「歐香咖啡」を発売し、人気歌手の葉璦菱を起用して、パリで撮影したテレビCMを大量に放送しました。
同年6月には、かつて李添財が学んだ日本のUCC上島珈琲と台湾の味全が共同で「優仕咖啡股份有限公司」を設立しました。
ほかにも統一咖啡、愛瑪咖啡、羅莎咖啡などが市場で競争しました。
競争が始まると、
- テレビCMが増える
- 小売店の缶コーヒー売り場が広がる
- ブランドごとのイメージ競争が起きる
- 消費者が複数の商品から選べる
- 「缶コーヒー」という分類が社会に認識される
ようになります。
一見すると競合の登場は伯朗にとって不利ですが、市場形成という観点では、競合各社の広告費が缶コーヒー全体の認知を高めました。
伯朗咖啡のライバル企業(1) 統一咖啡
統一企業(統一集団)は台湾最大手の食品・飲料コングロマリットです。
後に、1998年に統一集団がスターバックスを台湾に誘致した企業でもあります。
統一企業には食品・飲料の生産網だけでなく、7-ELEVENを運営する統一超商がありました。
台湾の第1号店は1980年に開業し、1986年には100店舗に達しています。
1980年代の「統一咖啡」として最も重要なのは、統一企業が1986年に発売した咖啡廣場です。
咖啡廣場は1986年にアルミ蒸着紙パック、いわゆる鋁箔包の商品として登場しました。
咖啡廣場は伯朗を缶コーヒーの首位から引きずり下ろす商品ではなく、「成人労働者の缶コーヒーから学生も買える甘い紙パックコーヒー」へ市場を広げた商品でした。
- 紙パックで軽い
- 価格を抑えやすい
- ストローですぐ飲める
- 甘味が強く、コーヒー初心者にも飲みやすい
- 学校の売店や若者向け販路に置きやすい
という商品でした。
缶コーヒー版も投入しています。
伯朗咖啡のライバル企業(2) 愛瑪咖啡
愛瑪咖啡は、維大力汽水で知られる南亞食品が製造・販売していたコーヒー飲料です。
南亞食品は古くから炭酸飲料、果汁、缶詰飲料などを扱っている企業です。
維大力は、黄金色の炭酸飲料で、甘味が強く、柑橘系や香料を感じる独特の味で、コーラやサイダーとは少し異なる「栄養炭酸飲料」です。
公式には、黄色は人工着色料ではなく、ビタミンB2に由来する色と説明されています。
十大建設期の1970年代後半以降、維大力は工場労働者、建設作業員、農業労働者などにも広く浸透しました。
特に知られているのが、薬用酒・滋養酒の保力達Bなどと維大力を混ぜる飲み方です。
台湾では俗に「工地調酒」、つまり「工事現場カクテル」と呼ばれることがあります。
李添財も缶コーヒー事業を始める前はルートピアを販売していたり、炭酸飲料は台湾で定着していました。
維大力と伯朗咖啡は、どちらも工場、工事現場、運転手、伝統的な小売店と相性がよい飲料でした。
南亞食品は維大力で接触していた労働者市場に、コーヒー飲料を追加しようとしたわけです。
しかし、髭面のおじさんがシンボルの伯朗咖啡と異なり、愛瑪咖啡のシンボルは欧州系の伝統的でエレガントな女性名のAIMAから取っていました。
これは当時の工事現場やトラック運転手たちには伯朗咖啡の方が支持率が高かった要員かもしれません。
その後、南亞食品は愛瑪咖啡のブランドを廃止し、「維大力 無糖黒珈琲」という真っ黒い本格派無糖ブラックコーヒーを販売しています。
伯朗咖啡のライバル企業(3) 羅莎咖啡
羅莎(ROSA)を生み出した母体は、嘉義発祥の巨大財閥・耐斯企業(Nice Enterprise Group)でした
台湾の大ヒットシャンプー「566」や、食器用洗剤「泡舒」を製造していた企業です。
1988年、耐斯グループは莫大なケミカル部門のキャッシュを背景に「羅莎食品」を設立しました。
金車の『伯朗(Mr. Brown)』が「現場のおじさんとビンロウ」、統一の『咖啡廣場』が「補習塾の子供たち」を押さえている中、羅莎が選んだ戦場は「バブル経済絶頂期の“新人類”たちのデートカルチャー」でした。
当時のトレンディ俳優や人気女優を起用し、「雨の日のパリの街角」「すれ違いに目が合う男女」といった、日本の『東京ラブストーリー』をそのまま台湾に持ち込んだような高額CMをゴールデンタイムに連日投入しました。
現場の労働者がプシュッとやる伯朗に対し、羅莎は「助手席に女の子を乗せて、夜の陽明山へドライブに行くときに車のドリンクホルダーに挿すコーヒー」という記号を獲得し、90年代前半に若者層で大ブレイクを果たします。
戒厳令解除後は缶コーヒー競争はより高度なブランド・イメージ競争へ変わる
伯朗の初期の強みは、かなり実用的なものでした。
- 仕事中にすぐ飲める
- 運転中の眠気覚ましになる
- 甘くてエネルギーを補給できる
- 喫茶店より安い
- 缶なので携帯できる
しかし、競合が増えると、この機能だけでは商品の違いを説明できなくなります。
そこで各社は、次第に異なる生活イメージを作りました。
戒厳令解除前後には、若者が政治、音楽、恋愛、ファッション、海外文化について、以前より自由に表現するようになりました。
この変化は、統一の咖啡廣場のような商品とも相性がよいものでした。咖啡廣場は伯朗の中心顧客だった運転手や労働者だけでなく、学生や若い消費者にも届く、甘くて低価格の飲料でした。
若者はコーヒーを必ずしも「本格的な苦い飲料」として飲んだのではなく、
- 友人と一緒に飲む
- 学校帰りに買う
- 音楽や雑誌とともに楽しむ
- 大人らしさ、都会らしさを感じる
商品として受け入れました。
若者の価値観や選択肢が広がる中で、企業も若者を独立した消費者層として意識するようになったと考えられます。
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