中華民国(台湾)の国連脱退時のコーヒー文化 蒋経国の十大建設 コーヒーチェーン店の出現

By Cafesba , 21 6月, 2026
力代咖啡

1960年までは、蒋介石総統率いる国民党の一党独裁政権のもと、冷戦下の対ソ連、中国の拠点としてアメリカの支援もあり、台湾は経済成長していきました。
しかし、1970年代には国際情勢が変わり、中国と入れ替わるように、台湾が政治的に国際社会から孤立していきます。
台湾は当時日本とも政治的には断交しましたが、経済的には裏技を使って、交流を続けました。
台湾でも日本の商社から生豆を輸入する台湾企業が、珈琲店のチェーンを作りました。
 

世界的に中華人民国が中国唯一の合法的代表と認めれ、台湾は孤立化
まず、1960年代から、東側陣営はソ連と中国間で対立が深まります。
ベトナム戦争でアメリカは1965年から本格的な地上戦に突入しました。
ベトナムの背後にはソ連がいます。
そこで、当時ソ連と対立するようになった中国に近づきます。
1969年、ソ連と中国の国境を流れるウスリー川の小さな中州珍宝島(ロシア語ではウスリー島)をめぐって武力衝突が起こります。
この後、アメリカと中国は急接近し、アメリカの台湾擁護の姿勢も揺らいでいきました。
1960年代後半から70年代にかけて、状況が変わります。
アジア・アフリカの新興独立国が多数国連に加盟し、中華人民共和国を支持する国が増えていきました。
そして1971年10月25日、国連総会で「アルバニア決議(第2758号決議)」が採決されました。この決議は、中華人民共和国を「中国の唯一の合法的代表」として承認し、中華民国(蒋介石の代表)を国連の議席から追放する、という内容でした。
アメリカは、中華人民共和国の加盟は認めつつも中華民国の議席も残す「二重代表制」案を模索しましたが、これは否決され、アルバニア決議が可決される情勢となりました。
そして中華民国は、国連を脱退します。
その後、1970年代には多くの国が、中華人民共和国と国交を樹立した中華民国と断交します。
アメリカもこの回で話した通り、カーター大統領が訪中した中華人民共和国と国交を樹立しました。
その象徴的な出来事がコカ・コーラの中華人民共和国での販売開始でした。
After the end of the Cultural Revolution, China's coffee culture began in hotels catering to diplomats, tourists, and businesspeople.

https://cafesba.com/en/node/100

中華人民共和国と国交を結ぶ三条件に
(1)中華民国(台湾)との外交関係を断つこと
(2)台湾と結んでいた米華相互防衛条約を破棄すること
(3)台湾に駐留させている米軍を撤退させること
がありました。
つまり、中華人民共和国との国交を結ぶと同時に、台湾と断交する必要があり、アメリカはこれを受け入れました。

台湾蒋が進めた国内十大建設

国連脱退以降、台湾では外交的孤立から「国際社会に頼れないので、自力で経済基盤を築かなければならない」という機運が高まりました。
国連脱退の翌年1972年に蒋介石の子の蒋経国が行政院長に就任しました。
蒋経国は、ロシア軟糖(ロシアン・タフィー)がお気に入りで何度も明星珈琲館に訪れたロシア出身の蒋方良の夫です。
1973年に第一次石油ショックが起こり、輸出依存度が高かった台湾経済は打撃を受け、物価が高騰しました。
そして、1973年大規模建設計画十大建設を発表します。
政府が公共投資を続けて雇用と国内需要を下支えする意味も生まれました。
輸入部品を加工して輸出するだけでなく、製鉄、造船、石油化学などを台湾国内に持つ必要があり、中国鋼鉄、高雄造船所、石油化学などが十大建設
に組み込まれました。
国庫に余裕がない中、当時の国家予算を遥かに超える巨額の資金(約3,000億台湾元)を投入すると発表されたため、知識人や一般国民、さらには政府内部の財政担当者からも「この危機的状況でそんな大金を使ったら、国が破産する」「ただの政治的なパフォーマンス(大風呂敷)ではないか」と猛反対や懸念の声が上がりました。
「今日やらなければ、明日には後悔することになる(今日不做,明天就會後悔)」と語り、強い意志で計画を押し進めました。
国民の不安を信頼に変えたのは、蒋経国の姿勢でした。
蒋経国は作業着に身を包み、建設現場へ何度も足を運びました。
過酷な環境で働く作業員たちと一緒に汗を流し、同じ弁当を食べる姿がメディアで大々的に報じられました。
世界的な大不振で輸出産業がストップし、街に失業者が溢れそうになった瞬間、十大建設という巨大なインフラ工事が数万人規模の「受け皿(雇用)」を作り、公共事業によって国民に給与が行き渡り、国内の消費が下支えされました。
1970年代後半に入り、最初の大プロジェクトである「中山高速道路」や「桃園国際空港」が次々と完成すると、国民の支持は決定的なものになりました。

大建設時代のコーヒー文化

大建設によって、特に中山高速公路、鉄道電化、台中港、桃園国際空港の建設が進められ、
- 商品を地方店舗へ迅速に配送できる
- 食品メーカーが全国規模で販売できる
- 台北以外の都市にも同じ業態を出店できる
- 都市住民の所得と消費機会が増える
- 広告とブランドによる全国市場が形成される
という条件が整いました。
この頃に創業された珈琲店は力代咖啡のようにチェーン店として店舗数を拡大するようになってきたのが特徴です。

 力代咖啡

力代咖啡の前身は、1968年に台北・西門町の成都路72号で開業した「百福西餐」でした。場所は大世界戲院の向かい側です。
当時の西門町は映画館が集中する繁華街で、武侠映画が流行していました。
映画を見に来た客が食事や休憩のために百福西餐を利用し、店は繁盛したとされています。
創業者の呂政雄は映画街の西洋料理店経営者として、店内でコーヒーを提供していたことが出発点でした。
- 輸入豆の供給が安定しない
- 入荷する豆の品質にばらつきがある
- 焙煎品質が一定しない
- 必要な量を継続的に確保できない
という問題がありました。
供給業者から納められる豆の品質と入荷状況が不安定で、創業者はこれに悩まされていました。そこで、外部業者に任せるのではなく、自社で生豆を輸入し、焙煎まで行う方針を立てます。
突破口となったのは、日本との強力なパートナーシップでした。
呂政雄は海を渡り、日本の関西最大級のコーヒー生豆輸入専門商社である「石光商社」にアプローチします。
当時の石光商社のトップであった石光輝男氏は、台湾の創業者の熱意と、これからの台湾市場のポテンシャルを高く評価しました。
この石光氏からの「鼎力支持(多大なるバックアップ)」を得られたことで、力代咖啡は当時としては異例の、世界各国の高品質な生豆を安定して直輸入するルートを確立することに成功します。
この高い調達力が、のちの「低価格チェーン展開」を支える最大の武器となりました。
安定した供給網という最大の武器を手にした呂政雄は、1975年に法人として「利代食品股份有限公司」を正式に設立します。
台北市仁愛路三段117号に、力代咖啡として最初の独立店舗が開業します。英文名は「LEADER COFFEE」でした。
次々と直営・加盟店を開設していきました。
当時、日本のドトールコーヒー(1980年創業・150円コーヒー)に先駆けて、台湾で「サラリーマンが毎日通えるモダンな平価(格安)カフェ」というビジネスモデルを成功させました。39元〜49元の価格破壊でした

日本と政治的には断交していても貿易は出来た
1972年に台湾と日本は政治的な国交は途絶えました。
では、なぜ力代咖啡は日本の商社である石光商社と取引できたのでしょうか。
それは国交は途絶えた後も、日本と台湾は「外交関係は切るが、経済・貿易・民間の往来は絶対に維持する」という方針で一致していたからです。
そのために作られたのが、政府の出先機関として実務を担う「民間組織」です。
日本側には財団法人交流協会(現在の日本台湾交流協会)、台湾側には亜東関係協会(現在の台湾日本関係協会)が設立されました。
事実上の「民間を装った大使館・領事館」がすぐに設立されたため、貿易に必要なビザの発行や、L/C(信用状)の発行といった銀行決済、通関手続きなどの実務システムは、断交後もほぼストップすることなく機能していました。
国家間で「自由貿易協定(FTA)」や「租税条約」を結ぶのは政治的に困難ですが、上記の実務窓口機関同士が「経済協力の覚書」を交わすことで、実質的に二国間条約と同じ効果(関税の優遇や二重課税の防止など)を持たせています。

 

タグ

コメント