台北の書店街の明星珈琲館が、当時の出版業界人や作家が集まる店として有名になった1960年前後には、台北の西門町にはコーヒーの専門店がオープンするようになりました。
この中で代表的なのが、成都路にある蜂大咖啡と南美珈琲です。
蜂大咖啡と南美咖啡のある成都路は1949年の国民政府の台湾移転後、大量の資金が流入し、映画館に加えて百貨店や娯楽施設が次々に現れ、中華商場の完成後には全国最大の商業娯楽の中心地となりました。
また、コーヒー専門店ではないですが、中山北路には台湾に駐留していた米軍向けのパン屋福利麵包がありました。
蜂大咖啡(フォンダー・カフェ)
店名に「蜂」という文字が入っているのには、面白い理由があります。
創業者である曹志光氏は、もともと自宅の屋上で養蜂を営んでおり、1956年に「蜂蜜大王」という名で、蜂蜜や農産物を売る店として創業しました。
そこから蜂蜜入りの各種飲料(紅茶やコーヒー)へと発展していったのだそうです。
創業者は早くは養蜂を営んでいたが、蜂が原因で危うく命を落としかけ、巡り合わせでコーヒー販売へと転業したと語られています。
またもう少し具体的で、もとの名は「蜜蜂大王」で早年は養蜂業を営んでいたが、養蜂があまりに過酷だったためコーヒー業へ転じた。
当初コーヒーを売ったのは蜂蜜を広めるためだったが、両者の味があまりに衝突しすぎたため、という話もあります。
つまり「蜂蜜のついでにコーヒー」が、いつしかコーヒーが主役になっていったわけです。
「蜂大」が養蜂業に由来するのは、こうした経緯によります。
1950〜60年代、日本は空前の純喫茶ブームであり、サイフォンによる抽出技術やサービスが非常に洗練されていました。
曹志光氏はそのプロの職人を日本から招いて、店に喫茶店としてのノウハウを導入しました。
店の奥にあるドイツ製のProbat焙煎機で自ら焙煎し、さまざまな種類の豆を売りつつ、簡単な飲食の場も提供し、次第に名が知られていったとされています。
コーヒーがまだ高級な舶来品だった時代に、豆と器具の販売を入口にしながら喫茶店も営む、という典型的なスタイルでした。
あります。
今でこそ当たり前にある「アイスコーヒー」や「水出し(コールドブリュー)コーヒー」ですが、1950〜60年代の台湾では、コーヒーは熱いまま飲むのが常識でした。
蜂大咖啡は、台北で最も早く「氷滴式(水出し)コーヒー」を導入した店の一つとされています。
もう一つの名物が店頭の中華菓子です。
店主によれば、これらはマカオの菓子職人から習得した技で、現在は息子が手作りで受け継いでいるとのことで、看板商品の合桃酥(クルミ入りクッキー)などは創業以来の伝統につながっています。
「港式(香港式)」「広東式」と表現されることが多いです。
飴菓子の瓶に入っているのは合桃酥(核桃酥)、鮑魚酥、雞仔餅など、香港の味わいの中華菓子が並んでいるとされ、看板菓子の一つである雞仔餅については、広東式の点心で、塩味があり、月餅の塩漬け肉あんに似た独特の風味と紹介されています。
西洋式の朝食に加えて、蜂大が自家製の港式点心を出したことで、コーヒーにケーキを合わせるのが当たり前だった時代に、コーヒーと港式点心を組み合わせるという唯一無二のコーヒー文化を打ち立てたと評価されています。
南美咖啡
台北・西門町の成都路の蜂大珈琲の隣にあるのが、南美咖啡です。
もともとは1956年に雑貨店・洋菓子店として始まりましたが、その後1962年に正式に南美股份有限公司を設立。
コーヒー豆の輸入焙煎と販売を専門にした最初の専門店とされ、「特級南美咖啡」が看板商品です。
蜂大咖啡が観光客で満員の名実ともにカフェであるのに対し、南美咖啡の客は地元の人が多く、飲食ができるほか、非常に専門的なコーヒー豆・器具の専門店でもあります。
メニュー面では、こちらも昔ながらの喫茶店スタイルです。
手頃な価格のコーヒー(特にハンドドリップ)が魅力で、朝食メニューにはミックスサンド、目玉焼き2個とハム付きトースト、ハムエッグトースト、プレーンワッフルなどがあります。
看板の南美咖啡は、炭焼き風味が香り、口に含むと最初にほろ苦さとわずかな酸味が感じられる飲みやすい味わいと評されています。
1950年代〜1960年代初頭の台湾では、世界各国の生豆を仕入れて「自家焙煎(自分で生豆を炒る)」して提供する喫茶店やロースターは、まだ存在していませんでした(多くは海外から輸入された加工済みのコーヒーや、インスタントコーヒーが主流でした)。
そのため、焙煎を教えてくれる先生もいなければ、専用のコーヒー焙煎機すら国内にない時代でした。そこで王氏は、手探りで以下のような道具を使いながら、独自のブレンドと焙煎技術を開発していきます。
- 鉄鍋(中華鍋など)での手炒り
- 台湾伝統の「烘茶機」(お茶の葉を乾燥させたり、焙煎したりする機械)の流用
コーヒー生豆にどう火を通せば、独特の香ばしさとコク、まろやかな苦味が引き出せるのか、お茶やパンの技術を応用しながら何度も焦がし、数え切れないほどの失敗と実験(多次実験)を繰り返しました。
この血のにじむような試行錯誤の末に、のちに看板商品となる「特級南美(スペシャルブレンド)」の技術と秘伝の配合比率を確立したのです。
独学で基礎を築いたのち、ビジネスが軌道に乗ると、王氏は世界最高峰と言われるドイツ製のプロ用大型焙煎機(プロバットなど)をいち早く台湾へ導入します。
これにより、安定して高品質な大量焙煎が可能となりました。
屋福利麵包(Florida Bakery)
中山北路の屋福利麵包は、朝鮮戦争以降、米国が台湾を防衛するようになったことと深く関係しています。。
1950年の朝鮮戦争勃発を受け、米国が台湾の中華民国政府への支援・防衛を再開しました。
米軍顧問団は1951年、台北市の中山北路と民族西路の交差点付近に、広大な台北米軍総部勤管司令部(HSA)の営区を設置しました。
決定的だったのがベトナム戦争です。台北米軍招待所は1963年8月26日に駐台米軍向けの宿舎施設として設立され、その後1965年から1972年のベトナム戦争期には、数十万の駐越米軍の休息・回復計画(R&R)の休暇先となりました。
この結果、中山北路一帯に米国式の歓楽街が一気に出現しました。1965年以降、台北米軍基地周辺の商圏や街路——晴光市場、農安街、双城街、徳恵街、吉林路、林森北路北段など——には、舶来品店・レストラン・精品店が立ち並んだだけでなく、当時の台北の他の場所にはなかったバーやナイトクラブが出現し、短期間でこの地域は濃厚なアメリカ色に染まったとされています。まさに「米国人が集まる娯楽の集積地」が形成されたのです。
福利麵包(Florida Bakery)は1949年創立で、前身は上海フランス租界区の有名百貨店。国民政府の台湾移転に伴い来台し、フランス人シェフと北京の老練な菓子職人を招いて設立されました。
英語名のFlorida Bakeryはアメリカ・フロリダ州に由来するとされています。
早期は主に「米軍顧問団」の供給元で、フランスパンの品質が優れ、中華菓子の製作技術も併せ持っていたため当時の名店となり、華航(チャイナエアライン)の機内食も供給して台湾の製パン業の流行を牽引した。立地もまさに米軍歓楽街の中で、中山北路三段にあり、晴光市場・双城街夜市に隣接し、MRT民権西路駅や中山国小駅から徒歩10分以内という、米軍エリアのど真ん中です。
1956年に福利麵包は食品衛生面で国際認証を受け、米国の評鑑で衛生基準に適合する全台唯一のA級パン店となり、在台米軍顧問団・華航・円山空廚(円山大飯店(グランドホテル台北)」が運営していた航空機内食(ケータリング)の製造部門)などが次々に採用ししました。
とりわけ米軍がよく食べたサンドイッチに使うトーストは必ず福利麵包から購入されていたとされています。さらに、1950年代に多層ケーキを作れる数少ないパン店として「カスタマイズ」の概念で市場を広げ、米軍将校俱楽部など催事を頻繁に行う団体が主要顧客になったとのことで、米軍経済の中で重要な位置を占めていました。
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