日本統治時代の終焉
1937年の日本のコーヒー前の輸入はピークに達しましたが、盧溝橋事件以降日中戦争が全面戦争になり、さらに1941年に太平洋戦争へ進む中で、外貨・船舶・輸入統制が強まり、コーヒーのような嗜好品の輸入は優先順位が下がりました。
さらに1941年、日本とアメリカの間で太平洋戦争が勃発しました。
その後すぐに、ブラジルはアメリカの連合国側に入り、1942年に日本との国交を断絶しました。
これによりブラジルからの輸入が大幅に減少しました。
一方で台湾では、コーヒーの栽培面積は1942年頃まで増え続け、1942年に1000ヘクタールまで増えました。
台湾コーヒーがこの時期、単なる嗜好品農業というより、「外貨を使わずに帝国内でコーヒーを調達する代替供給源」として期待されたからです。
1937年以降、ブラジル・インドネシアなどからの輸入が難しくなるほど、日本側には台湾産コーヒーを増やす動機がありました。
ただし、注意点があります。
面積は増えても、実際に安定して日本本土へ大量供給できたわけではありません。
太平洋戦争が本格化すると、船舶不足、肥料・労働力不足、食糧増産優先などで、コーヒー園は維持が難しくなります。
手入れが行き届かなくなった農園では、1930年代から台湾のコーヒーを苦しめていた「さび病」などの病害虫が再び猛威を振るい、収穫量が激減しました。
そして第2次世界大戦は多くのコーヒー農園は荒廃し、1945年日本の敗戦で太平洋戦争が終わります。
戦後、日本政府は台湾から撤退し、中華民国の支配下になります。
1945年に日本の敗戦で第二次世界大戦が終結すると、カイロ宣言に基づき、蒋介石主席率いる中華民国国民政府が、日本統治下にあった台湾を接収しました(台湾光復)。
同年9月に台湾省行政長官公署が発足し、陳儀長官が日本の降伏を受諾しました。
当初、多くの台湾住民は祖国復帰を歓迎しましたが、本省人(戦前から台湾に居住していた漢族)が省政府から排除され、日本資産の接収をめぐる不正が横行し、また大陸出身の官吏・兵士が無能で規律を守らないため社会的混乱が発生しました。
さらにインフレが進行し、本省人の不満は急激に増大しました。
この「本省人(もとから台湾にいた人々)」と「外省人(戦後に大陸から来た人々)」の対立は、その後の台湾社会を長く規定する亀裂になります。
二・二八事件
二・二八事件は闇タバコ取り締まりという小さな揉め事が、台湾全土の反政府暴動と、それに対する国民政府軍の大虐殺へと発展した事件です。
戦後の台湾ではタバコや酒が専売とされており、許可なく売る「闇タバコ」が貧しい人々の生計手段になっていました。
1947年2月27日午後7時30分、専売局の取締員らが台北市の天馬茶房付近に到着すると、闇業者はすでに逃げており、摘発できたのは40歳の寡婦・林江邁が持っていたタバコだけでした。
取締員は官製・私製を問わず全てのタバコと現金を没収しました。
林江邁はほとんど土下座に近い状態で「全部没収されたら食べていけない、せめてお金と専売局製のタバコだけは返してほしい」と懇願しましたが、取締員は相手にせず、取締員の一人・葉得根が銃身で林江邁の頭を殴り、女性の頭から血が流れました。
これを見ていた群衆が激高し、混乱の中で死者が出ます。取締官がタバコを売っていた台湾人女性を取り調べている時、群衆の中の誰かが発砲して見物人を死亡させ、円環闇煙草取り締まり事件が起きました。この日付の翌日が、事件名の由来です。
翌2月28日、事態は決定的に悪化します。翌28日、抗議に向かった市民に対し政府は機銃掃射をおこない、多数の死傷者が出ると、これに激怒した市民が街頭で外省人を殴打するなど暴動へと発展しました。
一部市民が放送局を占拠して台湾人の決起を呼びかけると、政治暴動は台湾全土に波及しました
ここで台湾側は、暴力ではなく政治的解決を目指す動きを見せます。事態の収拾に向け、知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会が台湾各地に組織されました。3月7日、台北の同委員会は、貪官汚吏の一掃、省自治の実施、政府各機関への本省人の登用などの改革を陳儀に要求しました。
ここで台湾側は、暴力ではなく政治的解決を目指す動きを見せます。事態の収拾に向け、知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会が台湾各地に組織されました。3月7日、台北の同委員会は、貪官汚吏の一掃、省自治の実施、政府各機関への本省人の登用などの改革を陳儀に要求しました。
しかしこの対話は、罠に近いものでした。
3月8日に中国大陸から援軍が来ると、陳儀は一転して二・二八事件処理委員会を不法団体として解散を命じ、増援部隊による無差別の殺戮で運動を押さえ込みました。
犠牲の規模は甚大でしたが、正確な数は今なお不明です。事件の犠牲者数は2万8000〜4万人と推定されています。 1987年の戒厳令解除後にようやく事件に関する調査および補償が実施されましたが、未だに正式な被害者数は不明とされ、過去の国民党政権下の不正義を追及する動きは決着をみていません。
国共内戦
当時中国では、戦前から続いていた中華民国の国民党政府と共産党の革命軍の内戦が再開し、地方農民の支持を集めた革命軍が大都市も抑えていきました。
本土を制圧された中華民国国民党政府は本土から逃れ、台湾に撤収しました。
国民党の総統蒋介石は内戦の後半、本土での劣勢を悟り、台湾を後方拠点に移していき、金銀・外貨、文化財、技術者・官僚・軍人を台湾へ移していきました。
1949年5月に国民党政府は台湾に戒厳令を施行しました。
1949年10月中国本土では北京、南京や上海を抑えるとついに共産党が勝利が決定的になり、共産党の毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言しました。
そして、中華人民共和国側は国民党の圧政から台湾の人民を解放すべく同月台湾制圧を試みますが、古寧頭戦役(金門島の戦い)で国民党軍に敗れ、台湾の制圧に失敗し、それ以降中華民国が台湾を実効支配することになります。
これ以降コーヒー産業も中国本土とは異なる道を歩むことになります。
1945年に日本の統治が終わり、中華民国政府が台湾を接収すると、日本統治期の農園・企業・流通網は大きく再編されます。
1945〜1950年代初めの台湾は戦後混乱、二・二八事件、国共内戦後の国民政府移転、土地改革などが重なり、コーヒー政策は後回しになりました。
コーヒー栽培面積は1942年ごろの1000ヘクタールから、1951年には7ヘクタールまで落ち込んだとされています。
戦後初期から1948年ごろに開かれた台北のカフェは、国民政府とともに台湾へ来た人々によるものが多かったとされます。
しかし戦後不況に加え、コーヒーは奢侈品として扱われ、高い税が課され、多くのカフェは閉店や転業に追い込まれました。
残った例として、国営色のある中国友誼会と上海発祥の美児聯喫茶店が挙げられています。
この時期の象徴となる喫茶店がAstoria Cafeです。
Café Astoria のちの明星珈琲館
創業者のジョージ・アスニンはもともとロシア皇室の軍人で、政変によって中国に亡命し、上海で「ASTORIA珈琲店」を営む同郷の友人を頼りました。
店名の「Astoria(アストリア)」はこの上海時代に由来します。
そして国共内戦の帰結とともに、店は台湾へ渡ります。1922年に上海で創立された明星珈琲館は1949年に台湾へ移り、その建物は台北市の歴史建築に登録されています。 アスニンは1949年に国民政府とともに台湾へ来た後、建国中学卒業の簡錦錐ら台湾人と他のロシア人とともに武昌街一帯に「明星西點麵包廠(ベーカリー)」を設立してロシア式洋菓子を売り、2階をロシア風軽食中心の「明星珈琲館」としました。
1950年代の明星咖啡館は、庶民が日常的にコーヒーを飲む店というより、かなり特別な場所でした。
早期はロシア風の軽食やコーヒー・菓子で、多くの外国使節や高官・名士を惹きつけました。
公式サイトは、1950年代の明星を「神秘而輝煌的象徵」、つまり神秘的で華やかな象徴として描いています。
蒋介石の長男蒋経国の妻蒋方良がロシア出身で、何度もこの店を訪れました。
彼女のお気に入りがロシア軟糖(ロシアン・タフィー)がロシア皇室ご用達の菓子とされ、店の看板商品となりました。
武昌街一段7号にあるこの建物は1948年から1949年にかけて建てられ、日本統治末期から戦後初期にかけて一般的だった構造で、立面の分割や比率は日本式の町屋形式を引き継ぎ、洗い出し仕上げの装飾を施した簡素なモダンアート風の様式でした。設計したのは台泥ビルなどを代表作とする留日建築家・林慶豊です。
戒厳令下の台湾での言論弾圧
戒厳令下では、市民生活のあらゆる自由が法的に制限されました。戒厳令下では、集会・結社・言論・出版・旅行などの権利を含む国民の自由や基本的人権を制限する法令が施行されました。
政府は戒厳令やそれに関連する法令を利用して、共産党員や反体制派(主に党外の活動家)に対して逮捕・軍律審判・投獄・処刑などを行うことができました。
ここで重要なのは、軍が司法を握っていた点です。「戒厳法」では戒厳令の施行中、戒厳地域の最高司令官が行政・司法事務を統括すると規定されており、執行の責任者であった台湾警備司令部が、蒋介石の指示のもとで徹底的にこれらの処置を行いました。
台湾海峡危機(1954〜55年)と朝鮮戦争(1950〜53年)という対外的軍事緊張が、国内の「赤狩り」を正当化し加速させた、という構図です。
弾圧がどれほど苛烈だったかは、個別の事件に表れます。1952年、台北県石碇郷鹿窟村に共産ゲリラが潜伏中との情報を受け、村人が一斉逮捕され、36名が処刑されました(鹿窟事件)。
密告ひとつで村ぐるみが摘発対象になり得たわけです。
台湾海峡の緊張化Café Astoriaから明星珈琲館へ
Café Astoriaはもともと上海・霞飛路七号にあった店のオーナーたちが国民党とともに台湾に来て、18歳の簡錦錐と手を組み、明Café Astoriaを台北の武昌街一段七号に引き継ぎました。
1949年10月30日の開業当初、台湾人は反共抗ロシアの空気の中でロシア人とは距離を置いており、簡錦錐は家族に心配をかけないよう、当初は出資せず、内装費だけを出していました。
1950年代に台湾海峡情勢が緊張すると、伏爾林(ブーリン)や列比洛夫(リビロフ)らは相次いで海外へ移民し、アスニンだけが台湾に残りました。
そして、残ったロシア人を守るための判断が、オーナー交代につながります。
アスニンが仕事を失って台湾に留まれなくなることを心配し、簡錦錐が単独出資でAstoriaを買い取り、アスニンを顧問として迎えました。
オーナーの代わったAstoriaは再オープンし、中国語の看板「明星」を掲げました。
明星咖啡館が特に有名になったのは、このオーナー交代前後の1950年代後半から1960年代以降です。
店の前には詩人・周夢蝶の屋台書店があり、そこに作家や詩人が集まりました。
黄春明、季季、白先勇などが明星に出入りし、台北文学史を記録するカフェになっていきました。
この点で、明星咖啡館は日本でいうと、単なる喫茶店というより、文壇喫茶、知識人サロン、出版社・雑誌関係者のたまり場に近い存在になっていきました。
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