改革開放後の上海での珈琲店の復活

By Cafesba , 5 4月, 2026
東海珈琲館

鄧小平政権の改革開放政策が1978年末より始まり、北京の建国飯店のような西洋風のホテルが相次いで建設され、そのホテルでは西洋料理やコーヒーやコーラが販売されるようになりました。
一方で、古くからコーヒー文化が根付き、第2次世界大戦前よりコーヒーハウスが多く出店されていた上海は、一軒を除き文革期間中はほとんどが全滅しましたが、改革開放後は徐々にコーヒーハウスが復活しました。

文革期にも唯一営業していたコーヒーハウスは上海珈琲館でしたが、1988年には、戦前上海の有名コーヒーハウスMars珈琲館が東海珈琲館として復活しました。


■文革期も唯一営業を続けたコーヒーハウス上海珈琲館
上海珈琲館は文革期の中国国内で唯一コーヒーを焙煎していた工場である上海咖啡厂が運営していたコーヒー店です。
中国の中でも上海というのは特殊な街で、外国船の船員や、友好国(アルバニアやアフリカ諸国など)からの訪中者がわずかながらも立ち寄る場所でした。
そのため政府の管理下で「対外的な体裁を保つための空間」として、店自体は意図的に存続させられたという側面もあったようです。
元々中国でも数少ないコーヒー人気があったという土地柄、文革中も営業が続いていました。


■上海咖啡厂とCPCコーヒー創業者張宝存
上海咖啡厂の前身のCPCコーヒーの創業者である張宝存はもともと会社が国有化される前はコーヒー事業で成功していました。
しかし中華人民共和国建国の翌年1950年取引のあった香港からの出張から帰って来ると「歴史的な反革命犯罪」で懲役3年の判決を受けました。
釈放後まもなく、張保存は1958年に再び懲役12年の判決を受け、青海省の刑務所兼労働収容所に送られました。
2度目の有罪判決は、かつての従業員の1人に貸した私的な融資が原因でしたが、その従業員は当時すでに国有企業の幹部になっていたと言うことです。
彼は、24年間を獄中で過ごすことになります。
その間CPCコーヒーは国有化され、上海咖啡厂となり、その運営する上海珈琲館は上海で唯一営業を続けたコーヒーハウスになります。
つまり、このコーヒーハウスは中国が中華民国から中華人民共和国への体制以降で、政権移行後の体制に乗っかった勢力によって生きながらえた面があります。
張宝存は中華民国蒋介石政権においての事業の成功者ですが、その時代の常識が中華人民共和国毛沢東政権下においては通用しなくなり、毛政権の新体制に取り入ることにより上海咖啡館は営業を継続できたのではないでしょうか?

■東海珈琲館について
上海が「東洋のパリ」と呼ばれ、国際都市として最も華やかに繁栄していた時代1934年に産声を上げました。
ソ連籍(白系ロシア系)のユダヤ人によって開業され、創業当時の店名は「東海珈琲館」ではなく、「マルス・カフェ(马尔斯咖啡馆 / Mars Cafe)」という名前でした。
当時の上海には、1917年のロシア革命から逃れてきた「白系ロシア人」や、ヨーロッパでの迫害を逃れてきたユダヤ人が数多く流れ込んでいました。
彼らは租界(外国人居留地)エリアで洋食店やカフェを開き、上海に本格的なヨーロッパのカフェ文化をもたらしました。
マルス・カフェも、こうしたヨーロッパ系移民による西洋文化の持ち込みと、ハイカラなものを求める当時の上海の若者たちの流行を背景にして誕生しました。
Mars咖啡馆は俄国大菜(ロシア料理)や羅宋湯(ボルシチ)、ケーキや洋菓子を扱っていたとされ、単なるコーヒースタンドではなく、ロシア風西洋飲食店として開業したことがうかがえます。
当時の上海で最も賑やかなメインストリートであった、南京東路と沙市一路の交差点付近(現在の中央商場エリア周辺)で開業しました。
世界中から最新の流行が集まる一番の繁華街に位置していました。

■中華人民共和国建国後マルス・カフェは東海飯店に転換
しかし 1949年以降、外国人が経営していた咖啡館は中国人に売却され始め、1956年以降は「公私合営」(国営化の一形態)により咖啡館の数がさらに減りました。
東海の場合、1954年にユダヤ人オーナーが帰国した後に「東海飯店」に改名されています。
外国人オーナーの離去と公私合営の流れの中で、実質的に国営の飲食店となったと考えられます。
公私合営後の西洋式咖啡馆の多くは西洋飲食の提供をやめ、中華料理に転向するか消滅しました。有名な「天鵝閣」(天鹅阁)などは大餅・油条・豆乳といった中華の庶民的な朝食店に変わり、やがて消えていきました。 
「飯店」への改名は、コーヒー専門店から総合的な食事処への転換を示唆しています。
文化大革命が始まると、西洋料理を食べたりコーヒーを飲んだりすることは「資(ブルジョア)」の烙印を押され、上海市内に残っていた13軒の西洋料理・コーヒー店は営業停止を命じられ、すべて中華料理への転換を強いられました。
唯一残ったのが「上海咖啡館」(銅仁路)のみでした。 
その上海咖啡館ですら、文革中は生き残るために焼き小籠包やワンタンを売っていました。 
東海もこの13軒に含まれていたと見られ、コーヒーの提供は停止させられていた可能性が極めて高いです。
当時の証言として、自宅でコーヒーを淹れていた人が、その香りを隣人に通報されて紅衛兵に家を荒らされ、2回も「闘争」(つるし上げ)を受けたという話があります。
その人はやむなくコーヒーをやめ、香りの弱いココアに切り替えたそうです。
コーヒーを飲むこと自体がブルジョア的行為とみなされた時代ですから、東海のような西洋式カフェが無事で済んだとは考えにくいでしょう。

■東海飯店のメニューの変化
1930年代のMars咖啡馆は、俄国大菜・罗宋汤(ロシア料理・ボルシチ)などのロシア系西洋料理中心でした。
1954年以後の東海飯店段階を経て、1988年の東海珈琲館は、「经营咖啡、西点,兼营西菜」(コーヒー、ベーカリー、西洋料理)の店でした。
さらに1980年前後〜復活後の代表メニューとして、清咖(ブラックコーヒー)、奶咖(ミルクコーヒー)、冰激凌咖啡(アイスクリームコーヒー)、红烩牛肉(牛肉の煮込み)、炸猪排(豚肉のフライ)、乡下浓汤(田舎風スープ)、餐包(パンロール)が挙げられています。
つまり、戦前の「ロシア料理店色の強い西菜館」から、1988年以後はコーヒーとペーストリーを前面に出しつつ、西洋料理も残す上海式咖啡館へ重心が移りました。
改革開放政策以降は国営の飲食企業にも市場原理や市民のニーズを取り入れることが求められるようになります。
そこで、かつてのモダンな上海文化を懐かしむ市民の声や、若者の新しい消費ニーズに応えるため、国営企業側の主導で「東海飯店」から昔の「東海珈琲館」へと看板を戻す決定がなされました。
東海珈琲では、海南島と雲南省産のコーヒー豆を挽きたてで淹れ、抗いがたい香りで店内を満たし、近隣だけでなく遠方からも客を惹きつけていました。

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