文化大革命終了後中国は改革開放路線に路線変更し、外国企業の誘致を進めました。コーヒーは、外国からの要人、観光客、ビジネスマン向けのホテルやレストランで提供される
貴重な外貨獲得の手段として利用されました。
■文化大革命の終焉
1976年9月文革を主導した中国の最高権力者毛沢東が亡くなりました。
その毛沢東から後継者として指名されたのが華国鋒でした。
そして文化大革命を主導していた4人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)が翌10月に逮捕され、失脚しました。
その後1977年夏、鄧小平が副首相として復活しました。
鄧小平はかつて文革直前に中国の経済立て直しを行っていたものの、文革推進派と対立して失脚していた
毛沢東の正当な後継者である華国鋒に対し、鄧小平は、農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を掲げ、党内、軍内で支持を集めました。
そして1978年12月、中国の政治の最高会議である 第11期中央委員会第3回全体会議(11次中全会にて、党の重点は文革型の政治闘争ではなく、経済建設・近代化へ移っていき、鄧小平が実質的な最高権力者となりました。
鄧小平が推し進めたのが改革開放路線です。
■1978年の米中首脳会談
1978年1月には、公式肩書きは国家元首でも党主席でもありませんが、実質的な最高指導者としてアメリカ大統領カーターと会談します。
1979年1月1日は、米中国交正常化が発効した月でもあります。
当時中国は、ソ連と対立しており、鄧小平はこの会談でアメリカ、日本、ヨーロッパ、そして中国が団結してソ連の拡大主義に対抗しようと呼びかけました。
アメリカもソ連とは対立していたものの、ソ連との緊張緩和を重視していたため、この提案には慎重でしたが、戦略的には中国と協力する方向で一致しました。
そして利害が一致したので、米中は宇宙、エネルギー、農業分野での協力協定に署名、中国人学生をアメリカの大学に送る合意を取り付け、アメリカ企業が中国市場へ参入することを歓迎する姿勢を示し、改革開放路線の基盤を固めました。
これをきっかけに中国では、文化大革命の時期とは打って変わって、資本主義国家との交流が活発になっていきます。
■1978年のコカ・コーラの中国での販売開始
その米中首脳会談の前に改革開放路線の象徴的な出来事がありました。
1978年12月13日にコカ・コーラ社が中国のCOFCO(中国糧油食品進出口公司)による中国での販売契約を結びました。
そして、12月15日米中国交正常化が発表されます。
カーター大統領より、コカ・コーラの中国での販売契約の記者会見は国交正常化の発表よりも後にするように言われたことによります。
このため、記者会見は12月19日に行われました。
鄧小平が最高指導者になった11次中全会の開始日は12月18日だったので、その期間中にこの契約の記者会見が発表されたことになります。
米中間の政治的な交渉も、コカ・コーラのビジネス上の交渉も北京飯店で同時期に行われ、そして、その時期に中国の政治の最高会議が開かれ、開国開放路線が決定するという衝撃的な出来事でした。
コカ・コーラは第2次世界大戦前にも中国で販売されていましたが、1949年の共産党政権樹立以降は販売が禁止されるようになったのです。
そしてついこの間まで文化大革命が行われていたような状況です。
■改革開放期のコカ・コーラは外貨獲得
そして改革開放の象徴である3,000ケースがのコカ・コーラが香港(当時はイギリス領)から北京と広州に1979年1月輸送されました。
当初、コーラを飲めるのは外国人観光客が集まるホテルなどに限られていて、一般中国人は対象ではありません。
コーラの支払いに外貨(または外貨兌換券)を充てることで、中国政府は貴重な外貨を獲得することができました。
当時の中国は深刻な外貨不足に悩んでたのでそれを解消すべく、コカ・コーラを中国に来訪する外国人に販売したのです。
■コーヒーも外貨獲得の手段の一つ
当時、中国には人民元とは別に、外国人が使用するための「外貨兌換券」という特殊な紙幣が存在しました。
コーヒーやコーラ、輸入煙草などは、主にこの外貨兌換券が使える「友好商店」や「高級ホテルのラウンジ」でしか手に入りませんでした。
これによって、政府は外国人が持ち込んだ外貨を確実に管理・回収し、一般の国内市場(人民元経済)と切り離して運用することができたのです。
このような外貨獲得の目的、また外資系企業の誘致などを進める中国は相次いで外国人向けのホテルを建設することになります。
北京市の観光局と、香港のビジネスマン(陳宣遠氏)による合弁で1982年に北京に開業したホテル建国飯店は代表的なホテルです。
中国初の中外合資ホテルとして知られています。
建国飯店は単なる宿泊施設ではなく、改革開放で外国資本・外国式経営・西洋式サービスを中国に導入する「実験場」だったからです。
北京市系の記事では、これは北京で初めての外国人との合資、外国人設計、外国人管理参加を伴う近代ホテルで、開業当時「中国初の本格的な西式ホテル」と受け止められたと説明されています。
科学的管理: 従業員の採用やトレーニング、フロント業務、レストラン運営などに西洋式の管理手法を導入しました。
1984年、中国政府は「建国飯店の管理経験を学ぶ」という通達を全国に出しました。
これにより、中国全土のホテル業界の近代化が加速し、サービス業のスタンダードが作られました。
入り口に警備員がおり、一般の中国人は自由に入ることすら難しい時代もありました。
コーヒー1杯の価格が当時の労働者の月給の数日分〜1週間分に相当したため、物理的にも心理的にも遠い存在でした。
建国飯店は1982年開業の中国初の中外合資ホテルで、当時の回想でも館内に「本物のバー、コーヒー店、フランス料理店」があったこと自体が革命的とされていました。
これらのコーヒー豆や食材は、香港を中継する外貨・商社・代理店ネットワークによって調達されていました。
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